2014年10月号

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連載記事

アイコム50年史

JA3FMP 櫻井紀佳

第1回 創業から大阪万博の頃まで

アイコムは今50周年を迎え新たなステップへと踏み出しています。東京オリンピックのあった1964年に会社をスタートし、その年、アマチュア無線機第1号機の開発と販売を始めました。当時はまだ真空管全盛の時代で、トランジスタの無線機はまだごく少数であり、オールトランジスタ無線機を目標に進めていたアイコムの当時を振り返って話を進めていきます。

■ 無線機開発の経緯

アイコムは東京オリンピックの熱がまだ冷めやらぬ1964年の暮れ近くに、50MHz用オールトランジスタのアマチュア無線機FDAM-1を発売しました。この年、大阪市の長居陸上競技場より少し南の場所で「株式会社 井上電機製作所」として発足した会社は、従業員もまだ10名に満たない状態でした。

当時、アマチュア無線機でオールトランジスタと称する無線機もあるにはありましたが、あまり飛ばないと評判も良くなく、また従業員の一人の所にそれの修理を依頼してくるハムが何人かおり、「改良してよく飛ぶようにすると売れるのではないか」、という話になりました。

その従業員が担当者となって第一号機のアマチュア無線機を開発しました。完成後は一部宣伝もしましたが、なぜか一向に注文が来ませんでした。これでは、会社から給料を貰っていては申し訳ないので辞めたいと、担当者が言い始めた頃に一人二人と買い手が徐々につき、売れるようになってきました。これが初代のFDAM-1です。実はこのFDAM-1には2つのバージョンがあり、初代のものは20台弱しか販売しませんでした。その後2代目のFDAM-1が有名になり、昔のユーザーでこの無線機を覚えている方のほとんどは、この2代目の方になると思います。この頃、井上電機製作所では、無線機以外にディップメーターなども作っていたのです。

当時の50MHzでAMモードの運用方法は、送信は水晶発振の固定で、それぞれの局が持っている水晶の周波数で送信するため、送信から受信に戻すと受信機のダイヤルをぐるぐる回して自局を呼ぶ局をバンド中探し回るという、今では考えられないような運用方法でした。

この頃、井上電機製作所のメインの仕事はシャープ(当時の早川電機)や医療機器メーカーの下請けをしたり、ビニール袋(ポリプロピレン)の製造機のコントローラーを作ったりしていました。

■ FM機の開発をスタート

FDAM-1の販売が何とか軌道に乗り、本格的に無線機の開発をすることになって新しい技術屋を探していた時に私が採用されました。初めての仕事はFMの無線機を作ることでした。当時、タクシー無線では真空管式の無線機が使われており、その中古品を改造してアマチュア無線のモービル機として使うハムが増えていました。その頃のタクシー無線は60MHz帯から150MHz帯へ移行する時期だったために、60MHz帯のジャンク品が中古市場に多く排出され、それをアマチュア無線の51MHzに改造して使うハムが多かったのです。

私が初めて開発したFM機がFDFM-1という1Wのポータブル機です。送信部の終段にはAM機と同じNECの2SC32を2個パラレルに使いましたが、1Wも出ない状態でした。これでは車載運用には出力不足だったため、真空管6360を使った10WのブースターアンプFM-10と、同じく真空管の6146を2本パラレルで使った100W出力のFM-100も開発しました。当時10Wを出せるトランジスタがなかったのです。また、受信部など小信号トランジスタはまだシリコンではなく、温度変化に弱いゲルマニウムでした。


1965年に発売した50MHz帯1WポータブルFM機FDFM-1とブースターアンプ

FM機も最初は51MHzだけでしたが、アマチュア無線局数も増えつつあったため、送信用のチャンネルも増やしていきました。

この年1965年の年末には、車載専用機FDFM-25を開発し販売を始めました。コントローラーは車のダッシュボードに、無線機本体はトランクに積み、その間は太い多芯のケーブルで繋ぎました。送信出力は10Wで真空管の6360を使用しました。最終的には1967年に50MHz帯および144MHz帯で1CHと2CHのバージョンを用意し、A、B、C、Dの4バージョンになりましたが、今では、この機種だけがアイコムに1台も残っていません。もし、今でも持っている方がいらっしゃれば最新機種とご交換させて頂きたいと思います。

FM変調は、それまで真空管式ではベクトル合成のような位相変調が主でしたが、可変容量ダイオードのバリキャップが出てきて、水晶振動子の周波数を直接変化させる変調方式がだんだんと主流になっていきました。アイコムの初期のFM機ではほとんどこの方式を使っています。

十分な変調のデビエーションを得るためには逓倍の段数を増す方法が一般的で、最初のFDFM-1でも水晶の原発振が3MHz帯でx2、x2、x2、x2と16逓倍して51MHzのFM信号にしていました。当時のFMの占有周波数帯幅は広帯域FMであったため、大きく変調周波数を振る必要がありました。この水晶振動子の直接周波数変調には難点もあり、キャリア周波数に対してプラス側とマイナス側が均等に振れずに歪みも多く、また本来のFMは音声の瞬時のピークを制限して隣のチャンネルを妨害しないようIDC (Instant Deviation Control)回路が必要だったのですが、そのような対応もできないまま単なるFMに過ぎない変調となっていました。

■ FDAM-2

AM機のFDAM-1の販売が好調なことから1966年7月にはFDAM-2を開発し販売を始めました。水晶1個の1周波数では運用が大変なので、この機種から5チャンネルのマルチチャンネルの送信になりました。井上電気製作所ではFDAM-1の時代から測定器だけの測定ではなく、1台毎に送受信を確認し、出力調整も実際の内蔵のアンテナに対し一番よく載るよう調整していたため実効出力が大きく、「よく飛ぶ」と評判になりました。出力トランジスタも2SC502を採用したため実質出力も増加しました。

■ AM固定機

ポータブル機が好評なことから固定機も開発することになり、最初に作った固定機がTRA-60で、送信の終段には真空管6360を使用して10Wを確保しました。この機種もAM変調のため、変調をかける変調トランスやその出力も5Wが必要でした。

実はこの頃HFの固定機を開発する計画もあり、外観だけはできて見本市にも出展しましたが、当時は完成させる力が十分になく、幻の機種となってしまったのがTRS-80です。

■ 初の144MHz FM機

翌1966年頃から、VHF帯も段々とにぎやかになり、144MHzの無線機を開発することになりました。当初は手探りで、送信機はもちろん受信機さえ作るのが大変で、最初は夜中までかかって作った受信部のテストでは、わずか200mも通信できなかったのです。会社には正規の測定器もほとんどなく、当時早川電機から心電計の無線部分の開発の下請けをしていた関係で、SG(標準信号発生器)を借りて測定すると、受信部の感度が極端に悪いことが分かりました。このSGのおかげで感度を上げることができ、その後感度が良いと評判になりました。

送信部も当時の終段トランジスタは弱く、すぐ破壊されてしまいました。製品を仕上げるまで不良となったトランジスタで灰皿が一杯になったことがあり、最後に残ったものでなんとか仕上げました。このようにして開発したのがFDFM-2です。同じ外観で50MHzの無線機FDFM-5もシリーズとして作ったところ好評でした。また、この無線機を据え置くと10W出力になるトラック型のブースターも販売しました。

さらに受信専用機としてFRFM-1(50MHz)とFRFM-2(144MHz)を発売しましたが、FRFM-2は周波数を150MHz帯に変更したものを業務用として販売することもできました。

■ 自作測定器

当時測定器は高価だったため、担当者全員に正規の測定器が行き渡らず、このため50MHz帯の自分用のSG(Signal Generator)を作ることにしました。会社の取引先で測定器に詳しい人がおりSGの信号の漏れとアッテネーターついて親切に教えてもらいました。SGは単なる発振器ですが、受信感度を測るためには1μV以下の弱い信号を取り出すことが必要です。普通に発振器を作ると必ず漏れた信号が受信されてしまうため、発振器の筐体を二重構造にして内側の箱を電気的に宙に浮かせて、水の漏れるところは電波が漏れると言われたため徹底的にシールドしました。

また、弱い信号を取り出すためにアッテネーターが必要で、発振コイルに金属パイプを垂直に対向させ、そのパイプの中を2ターンのコイルを移動させるときれいに対数的に減衰しました。このようにして素人でも素晴らしい測定器を作ることができました。このSGを私専用として3年以上使っていました。

■ CB機の輸出

この頃、現在とは相当異なる国際見本市が東京と大阪で1年毎に交互に開かれ、各社得意の商品や技術を展示して、海外との取引のきっかけを模索していました。会社として1ブース借りるには費用も高過ぎ、また展示する製品も少なかったため、関係のあったビニール袋を作る機械の会社の展示ブースの一部を借りて無線機を展示してみました。

何人か交代でブース番をしていましたが、ある時外国人が何か話してきたのです。当時も英語は苦手で何を言っているのか全く分からず、英語の分かる人を探して話を聞くと、それはアメリカのバイヤーでCB無線機を作って欲しいとのことでした。これをきっかけにCB機を作って輸出する商談に発展したのです。

井上電機製作所では、今まで製品を輸出した経験がなく、受注した台数が1台でも不足すると輸出できないこと、輸出の手続きが終わって船積みさえすれば代金が即支払われるL/Cという貿易決済のシステムなどを初めて知りました。また先方と電話連絡する必要があり、アメリカに国際電話をかけると、当時わずか3分の通話が4万円か5万円かかった記憶があります。国際電電(後のKDD)がまだ短波帯でアメリカと繋いでいた時代でした。

その時、100台ずつ作った車載用と固定用のCB機は、発振部が水晶発振の組み合わせで作るシンセサイザーになっており、後々アマチュア無線でも作ったシンセサイザーの参考になったと思います。参考にした車載機はアメリカのレイセオン社のもので、プリント基板のパターンを何気なく見ていると妙にゆったりしたカーブのプリントパターンがあり、よくよく見るとなんと女性のヌードの輪郭になっていたのです。アメリカでは仕事中にこんなことが許されるのかと驚きました。

これは最初のCBブームで、その後も色々引き合いはありました。競争相手が多く、あっという間に出荷価格が下落しました。当時、社長はこんなものに付き合っていては会社が潰れると考え、その後はCB機の開発には関わらないことになりました。その後、各社が競って競合するような業界には手を出さないというのが社是のようになり、その後のCBの大ブームにも参加しなかったため、苦い思いをせずに済みました。このCB機の大ブームの後で、倒産や経営が行き詰まった会社が多くありました。

■ HF機始動

1967年になり、いよいよHF帯の無線機の開発を始めました。その頃、SWLのDXerとして有名な外山さんという方が、DAVCOという、たいへん小型の魅力ある受信機をどこへ行っても修理してくれないので直してくれないか、と持ってきました。故障箇所はすぐに分かり修理してあげたのですが、この受信機は同調回路に他にない特徴がありました。それは、HF帯の3.5MHzから29.7MHzまで切替なしにLとCで可変していたことです。このアイデアは素晴らしいので我々のHF機にも使わせて貰うことにしました。この間の周波数比は約8.5なのでLもCもこの比以上変化できれば利用できます。

当時、三菱電機がMK-10というジャンクション型のFETを開発しました。FETの入力に対して出力が2次曲線なので3次歪みには強いとのことで実験してみたところ、確かに妨害に強く、この機器の特徴としてアピールすることができました。このようにして開発したのがIC-700T/Rシリーズです。送信部の終段には当時まだ使えるハイパワーのトランジスタがなかったため、真空管の6146となっています。また、この機種に接続するため、有名な真空管572Bを2本使った1,200W入力のリニアーアンプIC-2Kも発売しました。

この頃から機種名はIC-**がメインになりました。これは当時ICが使われ始めたのと、Inoue Communicationの意味で使うようになりました。まだ商標はI.E.W. (Inoue Electric Worksの意味) を使っていましたが、その後  ICEになりました。

■ AM機の進化

1968年にはFDAM-3を新機種として発売しました。今までと違って送信にもVFOをつけ、送信も受信も50MHz帯のどの周波数にも対応できる機種となりました。このため送信から受信に移っても、相手がこの機種なら同じ周波数で聞こえてくるようになりました。

■ FM機のIC化

また、FM機としてはIC-2FIC-6Fを発売しました。この頃は、アンテナの送受信切替のためにほとんどリレーを使っていましたが、よく接点不良が発生したため、この機種では電子切替にしてこの問題の解決を図りました。また、終段のトランジスタがまだ十分に丈夫ではなく、アンテナの繋ぎ忘れやショートで壊れることがよくあったため、APC (Automatic Protect Circuit)を付けて終段トランジスタの破壊を軽減しました。

受信部も高周波増幅にFETを採用することで妨害に強くなりました。この頃からラジオ用のICが発売されたため、新しいもの好きの性格から三菱電機のFM用ICを採用しました。しかしまだICに慣れていない頃だったこともあり、ICは安定に働くものとばかり思っていましたが意外に不安定で苦労しました。その後、三洋電機のFM用ICの方が安定していたため、こちらに変更しました。

FM変調回路も今までの直接周波数変調ではなく、位相変化が大きくとれる新たな位相変調回路を開発し採用しました。

■ とられた機種名IC-71

翌1970年にいよいよ大阪で万国博が開かれるという国中うきうきするような機運の中、井上電機製作所では50MHzの固定機を新たに開発し販売することになりました。これにはユーザーの要望も多く取り入れて機能も充実させ、機種名は年代からとった「IC-70」と決めていました。ところが、東芝がIC-70というラジオを発売し、これを盛んに宣伝するため、このIC-70の機種名が使えなくなってしまいました。仕方なく一歩先を行くIC-71として発売することになりました。当時はICを使ったラジオやその他の電気製品が多く発売され、こちらにはIC-**の型名が多く使われ、さらに70年万博の関係で70も多かったのです。この機種は1つのVFOで送受信を同じ周波数で即運用できることが特徴でした。既にこの頃には送信から受信に戻した後、ダイヤルを回して相手局を探すような方法はメジャーでなくなっていたのです。

次回予告
次回は1970年代の製品を中心にご紹介いたします。

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