2016年4月号

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連載記事

熊野古道みちくさ記


熱田親憙

第23回 木綿の産地だった泉大津市

大阪府泉大津市はかつての木綿産地で、織物産業の拠点。当地の「織編館」を訪ねた。

木綿栽培の歴史は木綿の種が中国から輸入された室町・安土桃山時代から始まり、江戸時代に掛けて木綿の栽培が盛んになった。特に泉州(堺、泉大津、熊取)が産地として盛んになった理由は、1)気候が温暖で、木綿栽培に必要な干鰯などの漁肥が豊富なこと、2)木綿は麻より保温性がよく、絹より多量に生産できること、3)摂津という一大消費地を控えていること、4)土地の水はけがよいことなど、条件が揃ったことによる。

木綿栽培の最盛期(18世紀)では、田んぼの半分が稲作、半分が木綿というから、如何にも木綿産地らしい。江戸時代の木綿農家は農繁期を除く10月から翌年5月ごろまで、男は藁仕事、女は糸紡ぎから製織までの綿仕事を午後7時ごろから夜中まで働き、一日一人1反から1反半織っていた。反物は日常着、縞帯、夜具用などに使われた。江戸後期には木綿紡織が産業化し、最も製織が盛んな宇多大津村(泉大津市)では、天保14年(1843年)279所帯中、206所帯が綿織に関わっていた。当然、集荷・加工所の中心となり、風呂敷地 真田織、女帯地、などの織職人がひしめいていた。

明治以降、インド、エジプト、カリブ海から薄地の木綿が輸入され、日本での木綿栽培は無くなっていった。日本は織機の技術を生かした産業に変わって行き、明治20年(1887年)に牛毛毛布を生産開始。赤ゲットブームを経て明治~大正~昭和(戦中)に懸けて毛布中心の毛織が続く。戦後、毛布の多様化が進み現在に至っている。

織編館の説明員はここまで毛布を支えてきた技術は、起毛作業工程(チーゼル草、針布)と紋紙(パンチカード)による自動織機だと胸を張って結んでくれた。

泉大津駅を横切って、江戸時代に織物産業が盛んだった浜街道を横手にみて、板原町にあるアップデートな織物メーカーの深喜毛織(株)の本社工場を訪ねた。当社は明治20年(1887年)創業の毛織物一貫生産の工場で、現在はカシミヤ服地の反物がメイン製品である。

現場に入って、原毛のわたづくりからカード機、自動紡績で糸に撚りを掛け、そして精錬、染色、起毛の工程を経て最終検査へとご案内戴いた。

クリーンな工程の中で、ウールビンの中で汚れのないわたが綿雪のようにゆっくり降るさまを見ると、木綿畑にいるような気持ちよさを覚えた。

次に、天然原材料の「毛」を最高品質の服地に仕上げる起毛工程で、量産用の金属起毛ではなく、植物材のチーゼル草を使用して、自然素材には自然のものをという経営感覚は大したものである。デジタル管理とアナログ技術をミックスさせる経営戦略に感服した。

最後に豊中町の泉穴師神社を訪ねた。社殿大修理のための寄進者に織物業者と思われる幡奉賛会140社の掲示があり、紡織の神・幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)への信仰が今なお盛んであり、泉州の毛織産業の将来はまだまだ明るいと感じた訪問であった。


スケッチ 泉穴師神社、織編館、深喜毛織にて(大阪市泉大津市)

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