2016年7月号

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連載記事

熊野古道みちくさ記


熱田親憙

第26回 大阪最後の宿場町へ

JR阪和線長滝駅を下車し、国道26号線に沿った熊野街道を山中渓駅まで散策した。

まず、府道248号線に沿う蟻通神社(泉佐野市)を参拝。村の産土神社らしい構えだ。滝西交差点を左折して狭い熊野街道を進むと、奥家(旧庄屋)住宅に出合う。奥家は和泉国の有力な国人で江戸時代には樫井の庄屋(農民)を代々務めたという。住宅は江戸時代の建築で、どっしりした国の重要文化財である。近くには塙団右衛門直之と淡輪六郎兵衛重正の墓が単独に祀られていた。2人とも1615年の大阪夏の陣で豊臣方の武将として、徳川方の和歌山城主浅野長晟軍と樫井川で交戦。先陣争いをして2人とも討死。武名の高い2人は戦死の地で弔われて、古道のここに眠っている。この合戦は豊臣方の敗北となり、戦功を焦ったことが敗因と言われているが、紀州・山口一族のお菊による密書もれの伝説もあり諸説は尽きない。

明治大橋麓に古戦場の記念碑があるが、なぜかもの悲しい。府道64号線を南下して、海会寺跡・一岡神社で一休した後、和泉砂川駅近くの信達市場に着く。熊野詣で賑わった中世は、上皇の宿泊所にしたところ。江戸・元禄時代以降は、紀州の殿様の参勤交代の本陣が置かれ、人が集まるようになり、市場が立ち始めた。商売繁盛を願って、本陣跡近くに市場稲荷神社も建つ。毎年年末になると、数丁に亘って歳の市が開かれ、泉南市の中心的礎を築いたようだ。熊野街道は大阪商人を呼び寄せた交易街道でもあった。

ここから一気に 大阪最後の宿場山中宿のあるJR山中渓駅前に立つ。ここより山中宿の石畳みの道を300メートルほど進めると。その両脇には、本陣跡、庄屋屋敷跡や町屋などがあり、往時の盛況ぶりが鬼瓦や、門構え、広い庭などに伺えた。山中宿の入り口の石碑には 「紀州街道」の文字が深く刻まれていた。駅前の説明板には「山中宿は山中川の渓流地にあって、和泉と紀州を結ぶ古道が通っており、古くは南海道と呼ばれ、神武天皇の御東征の道であった。平安から鎌倉時代には熊野詣客で賑わい、川沿いに宿が建ち始めた。江戸時代の紀州徳川藩の参勤交代時には、旅籠も本陣を含めて二十数軒あり、近隣より、三千人の人夫や助人が集まるほどの賑わいだった」とある。

大名行列は動く「市場」なのである。春には駅裏に流れる山中川は櫻の名所で、花見客で賑わっている。山中渓駅から1kmほど離れた県境に、山中川に架かる境橋がある。「1857年土佐藩士広井大六が同藩士と口論の末、切り捨てられた。子供の岩之助は仇討ちの免許状を持って、仇のいる紀州藩に国払いしてもらい、境橋の泉州側で待ち受けて、見事仇討を果たした」と、日本最後の仇討の場として説明されていたが、紀州藩にとっては、藩境は「捨て場」なのである。今日歩いた「道」には国づくりのための道、祈りの道、隣接藩との交易、戦いの道、暮らしの道、社交・交流の場、口承伝達などの役目があることを学んだ。


スケッチ 山中宿(阪南市山中渓)

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