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Japan Castles On The Air (JACOTA)

Castle 10 大和郡山城(奈良県大和郡山市)

JO3SLK Greg Cook (翻訳 JP3DOI 正木潤一)

大和郡山城について

私はかつて奈良県北葛城郡王寺町に住んでいたことがあり、この郡山城にそれほど遠くないところでしたが、JACOTAプロジェクトをはじめるまで一度も訪れたことはありませんでした。しかし、この地域と大和郡山城は歴史に関係することが多いことから、10回目のJACOTA記事に選びました。このお城の正式な名称は『大和郡山城』ですが、地元の人たちは『郡山城』と呼んでいます。この記事でもそのように呼ぶこととします。

現在私は兵庫県川西市に住んでおり、郡山城へは車で1時間半ほどです。ある土曜日の朝6時半ごろに家を出て、吹田ICで高速道路に乗り奈良方面へと向かいました。さらに一般道を走行し、8時半ごろにお城に着きました。天気はとても良く、雲はあるものの日が差していました。お城の大手門のすぐ近くにある小さな駐車場に車を停め、IC-705を入れたLC-192とBuddipoleアンテナ、ID-51の入った小さなポーチをカートに載せました。カートには折りたたみ椅子が付いており、屋外でも快適に運用することができます。ポーチは昨年7月の記事で紹介したものです。

駐車場から天守台までは徒歩10分ほどでした。そこから階段をすこし登って運用場所に着きました。アンテナとアンテナチューナー、そしてリグをセットし、9時ごろには準備が完了しました。まずは郡山城についての話から始めましょう。

郡山城の歴史

郡山城は砦構造で、天正時代(1573年~1592年)、大和の国にあったお城です。1580年に筒井順慶(つつい じゅんけい)が城を手に入れました。実際にお城の改修工事は1585年ごろに始まりました。外周を囲む堀のある現在のかたちには1595年に完成しました。城内の敷地は基本的に当時のままです。

郡山城は、あの天下分け目の関が原の戦い(1600年)で放棄されましたが、新しい将軍は京都と大阪の近くに位置するこの城に重要性を見出し、1615年から再建にかからせました。郡山城はその後幾人からの手に渡りますが、天下泰平となった江戸時代には柳沢氏が居住し、経済的にも政治的にも繁栄しました。

その後の郡山城

1580年に筒井順慶が彼の宿敵・松永久秀を倒したのち、砦であった郡山城に移り、強化してお城にしました。1585年、秀吉の弟・秀長(ひでなが)が郡山城に移り、彼の指示により多くの改修が行われ、近代的な大きな城となりました。その際、彼は近くのお寺から庭の岩や石像までも徴用し、石垣に利用しました。1595年に増田長盛(ました ながもり)が移りますが、関ヶ原の戦に敗れたときに遺棄しました。その後、郡山城は1615年に徳川家康が水野勝成(みずの かつなり)を置いて修復させるまで、荒れたまま放置されました。1724年に柳沢吉里(やなぎさわ よしさと)が城主となります。柳沢氏による統治は明治維新になってお城が廃止されるまで続きました。(『Jcastle』より引用)

歴史的建造物としての郡山城


大手門

大きくて重い扉からなる巨大な門。扉の上は武器庫であったと考えられますが、攻め入ろうとする敵に対してここから兵が迎え撃つこともできました。


大手門の前にある追手向櫓

壁に設けられた窓から敵を迎え撃つための場所。門に近づく者はこの狭くなった場所を通るしかなく、城を守る兵たちの攻撃に曝されることになります。


大手門から見る場内の敷地

門をくぐると、攻め入る敵は左に曲がって狭い道を登ることになります。その間、門の上からの攻撃に曝されます。


大手門内にある城址会館

お堀と橋


石垣(左)と、ほとんど干上がったお堀(右)

この写真から、お堀の深さや石垣の高さが分かると思います。郡山城には、内側、中、外側と3重のお堀があり、それぞれを石垣が囲っています。侍の住居は城を囲むようにして建ち、町人たちは平野部に住んでいました。かつては、城は山の上に立てられていましたが、丘の上に作られるようになってから丘を囲む平野部に人々や城を守る侍の家々が建ち並び、交易が盛んになって、町が形成されました。


極楽橋と内側の堀の様子


新たに復元された極楽橋

復元された極楽橋は、郡山城のパンフレットに載っている古書を参照して描かれた、かつての姿と似ています。この橋は復元されて間がないため、郡山城について書かれたほとんどの記事や資料にはまだ載っていません。


特別な杉の木が使われている橋

この橋の復元には3億円以上掛かったとのことですが、おそらくもっと掛かっているでしょう。人の手によって作られたと思われる手すりの柱には、技巧が施された鉄や真鍮が使われています。門をくぐってすぐのところには、見学客のためのガイドの事務所があります。


白沢(はくたく)門へと続く極楽橋

手すりの柱や横木はもちろん、床などはすべて特別な杉の木で作られています。木材の表面は独特のくすんだ橙色になっています。杉の木目がよく目立っています。

天守台


復元された天守台

郡山城といえば大きな天守台でしょう。石垣が崩れかけていたため改修されましたが、この改修作業中に、天守の基礎にまつわる歴史的に重要な発見がありました。上へ登るための傾斜には、積み重ねられた岩によってちょうどいい具合の階段になっています。当時の城の姿が描かれたイメージ図には手すりがありませんが、安全に見学する上で必要です。

天守台からの眺め


天守台からの眺め

奥の方に城址会館、右手に大手門と大手向櫓が見えます。お堀に掛かる極楽橋は、そのさらに右にあります。


天守台からの城址会館の美しい眺め。

私は明治時代の建築様式が好きです。今回は博物館を見学する時間がありませんでしたが、再び郡山城に来て博物館を訪れたいです。


眺望

よく見ると、若草山や五重の塔、東大寺が見えます。郡山城の建っている丘は低いので天守台の高さは海抜81mほどですが、見てのとおり城主はとても良い眺めから城を攻めようとする敵情を観察出来たようです。当時はさらに上の階層にある天守閣からもっと良い眺めだったことでしょう。

天守台での運用


今回無線運用をした天守台

見学者にお城を隅々まで案内する大勢のボランティアの方たちがいます。彼らはお城についてたいへん詳しく、中には当時の歌を披露する方もいました。


天守台の隅にシャックを設営

天守台に、いつものBuddipole®アンテナシステムで垂直ダイポール(L字型に張ったラジアル線を使用)を組みました。三脚は過去の記事で紹介したものを使用しました。

アンテナは、11インチ(約30cm)の複数のアルミパイプ、VersaTee®給電基部、そしてホイップエレメントで構成されています。ラジアル線はVersaTee®給電基部に取り付け、放射エレメントと同じ長さにします。少し調整してSWRを下げてからAH-705でIC-705とマッチングさせました。

この日はARRLの10mバンドのコンテストが行われていて、28.450MHzにて近距離の局と短めに交信しました。ところがこの時点ではまだコンディションが良くなかったので、144/430MHz用アンテナをIC-705に接続してD-STARと2mバンドFMで数局と交信してから、2mバンドSSBに切り替えました。12月号で述べたように、国内では2mバンドのSSBはたいへん人気があります。また、私が運用しているお城を知っている、あるいは訪れたことがある方と交信するのは楽しいです。

ただ、10mバンドにまだ未練があったので、再びHFアンテナに戻し、信号を探しました。10mバンドは相変わらず静かでしたが、IC-705のスペクトラムスコープ画面上に28.435MHzで信号を見つけました。早速その周波数に合わせるとVKの局がCQを出していました。コールすると、1回で取ってもらえました。相手局は慣例的に59レポートと、私が17番目の交信相手であることを示す“017”を返してきました。彼は私にとって初めて交信したコンテスト参加局であるだけでなく、IC-705を使った初めてのDX局でした。私がQRP(バッテリーパックを使用して5W)で運用している事が分かると、親切にも私の信号は実際には“53”であることを教えてくれました。

しばらく経つと、またCQを出している局を発見しました。その局が他の局との交信を終えるのを待ってから、彼のQRZに対して私が応答しました。彼は“59”とコンテストナンバー007(彼にとって7番目の交信相手)を送ってきました。私は喜んでログブックに“FK4”の字を書き込みました。改めて、IC-705とBuddipole®の働きに感銘を受けました。

私はコンテスターではなく、コンテストログを提出したことはないのですが、コンテスト参加局を見つけて狙い撃ちして自局の設備の性能を試したり、いわゆる“強力局”に太刀打ちできるかを試したりすることを本当に楽しめました。そんなことが本当に面白く、毎回必ず技術やコツなどを学ぶことができます。


日本ではコロナ禍以前でも必要に応じてマスクを付けるのは一般的です。今は行く先々、特に密になる場所ではマスクを付けます。お城ではオープンスペースも例外ではなく、訪れる見学者、ガイドの方、そして私もマスクを付けていました。運用するときに一時的に外すことはあっても、私が運営している所に見学者が来ると付けました。この写真はガイドの方の1人がわざわざお仕事の合間を縫って撮ってくれた1枚です(しかも、その方はアマチュア無線についてご存じだったようです)。その方にはお城についていろんなことを教えていただき、2カ国語で書かれた分かり易いパンフレットと、詳しい地図を下さいました。

見学者の中には、足を止めて私に「アマチュア無線ですか?」と尋ねてこられる方が居ました。「はい、そうです」と答えてJACOTAとこれまでに訪れたお城の話をしました。それを聞いて大変興味を持ったようで、お城で無線している様子をWEB記事に寄稿していることに驚かれていました。彼らも、これまでに訪れたお城について話してくださり、しばらくおしゃべりを楽しみました。

私の居る天守台に多くの見学者が来るようになってきました。私は隅っこで運用していましたが、それでも景色を眺めたり写真を撮ったりする人の邪魔になると判断しました。時間はもう昼頃で、すでに3時間ほどここに居たことになります。そこで、荷物を片付け、階段を降り、10分ほど歩いて駐車場の車に戻りました。1時間半ほど走って家に着いたときにはクタクタでしたが、とても楽しく有意義な1日となりました。読者の皆様においても、今回の記事を楽しんでいただけたら幸いです。

次回のJACOTA

どの天気予報を見ても今年の冬の寒さが厳しとのことですので、次回のJACOTA歴遊も自宅の近くのお城から選ぼうと思います。候補として、兵庫県の尼崎城と大阪の岸和田城の2つあります。


尼崎城


岸和田城


次回はどっちのお城に行こうかな? 次回の記事も忘れずにチェックしてくださいね。それではまた! ベスト73

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次号は 12月 1日(木) に公開予定

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