特別寄稿
2026年5月1日掲載
JARL100年、アマチュア無線100年など100年ネタが豊富な昨今です。ラジオも放送開始100周年を迎え、それを記念したNHKのJA1YQHの運用もあって、華々しく放送記念日を迎えたのが昨日のようです。

一方で終わってしまったものもあります。「基礎英語」で長年親しんだNHK第2放送です。皆さんそれぞれに、最後の瞬間を録音、録画されたようですが、私は、写真の100年前のラヂオをセットして、第2放送のキャリヤが止まる瞬間に臨みました。

詳しくは述べませんが、このラヂオは来歴がきちんと分かったラジオです※1。1927年にアメリカから輸入されました。巾約54cm、高さ約24cmの木製筐体に収められた真空管式ラヂオで、アイオワ州のBrenard Mfg.という会社が作った“Heraldyne Radio”というラヂオです。
このラヂオで第2放送のキャリヤが切れる瞬間を聞いたとき、「ああ、一時代が終わったな」と感じました。しかしそれと同時に、「らじる★らじるは100年先に残るか?」、「スマホはどうか?」、そして、「この先100年後に残るものは何だろう?」と感じました。
そこで、このラヂオはすでに100年も生きてきたのだと気づきました。このラヂオにとっては、ラジオ放送100年が一段落してNHK第2放送も終了した今は、これから円熟味を増していよいよ「経年美化」を進める入り口にすぎないのかもしれません。ひょっとしたらこのラヂオこそ、あと100年生き残るものなのかもしれないと気づいた次第です。
本稿は、この100年前のラヂオを100年先まで生き残らせるための「現状のまとめ資料」です。このラヂオが生まれた100年前の時代、つまりラヂオ放送開始当時の世の中の様子を振り返り、その時代の日本でこのラヂオはどういう位置づけだったかを考察します。また、このラヂオの概要、最近行った修復の道のりなどをご紹介します。
古いラジオをただ懐かしむ対象としてではなく、次の100年に向けたキックオフのヒトコマにできないかと壮大な夢を描いてスタートです。
大正末期の日本はどんな国だったのでしょうか? 写真は、1924年(大正13年)の大阪府東成区猿山村字田辺25番田、現在の天王寺から地下鉄御堂筋線で2駅目の西田辺駅周辺の様子です※2。今は大都会の一角ですが、当時は「見渡す限り水田が続いていて、建物は田んぼの中に1軒だけ。きつねやタヌキ・野生のニワトリが住む荒れ果てた土地」であったと言われています※3。
当時、日本の人口は約6000万人。大正11年には市の数は91、またこの写真のような町村は12,000もありました。100年後の今は、人口は倍、市は10倍、町村は1/10です。

この写真には電柱が写っています。つまり、このような田舎にも当時から電気は来ていたということです。しかし明かりを取るための「電灯線」として来ていたのであって、壁面コンセントがあってそこから24時間電源がとれるような家は、当時はありませんでした。100年前の日本はそういう国でした。
そのような中で、1925年(大正14年)にラジオ放送が始まりました。最初は、放送局は東京、大阪、名古屋の3局だけ。冒頭のJA1YQHのQSLカードには記載がありませんが、運用時の出力はいかほどだったのでしょう。当時の3放送局は出力1kWでした。
さらに1928年(昭和3年)には九州や北海道などにも放送局ができ、全国8局となって、それらを結ぶ全国中継網も完成しました。ここに至ってようやく日本中でラジオを聴くことができるようになったわけです。
一方、ラヂオ受信機は放送開始前後には特別なぜいたく品でした。何しろ市中に電気店はなく、民生品という言葉もない時代です。ラヂオ本体以外にヘッドフォンやスピーカーも購入し、また別途アンテナ工事を行うことも必要でした。いざラヂオを聴くには、今のスマホの初期設定や立ち上げの操作以上の大きな苦労を伴ったことでしょう。
出回り始めたラヂオは、2つの軸で大きく分類することができました。鉱石式⇔真空管式、海外製⇔国産の2軸です。国産・鉱石式は数圓~10圓程度、海外製・真空管式は青天井の世界で数百圓もするなど、ピンキリで様々なバリエーションがありました。

「国産第一号鉱石ラジオ」早川金属工業製(シャープミュージアム収蔵品: 近代化産業遺産※4、※5)
1924年(大正14年)7月には月産1万台であったとされたとされる※2。価格は5圓前後

国産真空管ラヂオ 日本無線電信電話製の単球ラジオと専用アンプ
(日本ラジオ博物館収蔵品)
そのような背景を受け、様々なラヂオ部品も販売されていました。当時はラジオを自作される方も多かったようです。

当時市販されていたバリコン(早川金属工業)
今とそん色ない金属加工が見事

右:固定式鉱石検波器(古河電氣工業)
いずれにしても、当時は、今のようにLEDのノイズなどない時代ですから、安価な鉱石ラヂオでも3大都市圏ではよく聞こえたことでしょう。また、聞こえるのは近隣の1局だけですから、選局するという概念もなかったと思われます。
そのような時代背景の中で、ここで取り上げる“Heraldyne Radio”は、先の分類でいう「海外・真空管式」にポジショニングできます。アメリカ国内では150ドル程度で販売されていたようです。この販売価格を当時のドル/圓レートで変換すると圓貨では概ね400圓になります。当時は大卒初任給が50~60圓だったそうですから、当時100人に1人居るか居ないかの大卒者でも購入するのは大変だったでしょう。その大卒初任給換算で、仮に当時の1圓が今の5000円だとすると、今なら200万円もする高価なラヂオだったといえます。
高価さの対価は、大きな音で放送を楽しむことができたことです。もちろんスピーカーは別途購入する必要がありますが、鉱石ラヂオがほとんどだったこの時代にスピーカーを鳴らすことができたのです。ラヂオをお茶の間の真ん中にドンと置いて、相撲中継や野球中継に熱中したことでしょう。
次ページは「“Heraldyne Radio”全体の観察」から
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