2014年6月号

トップページ > 2014年6月号 > JA1BNW 廣島孝之さん

JA1BNW 廣島孝之さん


自宅シャックでの廣島さん(2014年5月)

ラジオの製作に励んだ少年時代

横浜市港南区からCWを中心にアクティブにオンエアしている廣島孝之さん。父親の仕事の関係で長崎県佐世保市に住んでいた国民小学校2年のときに終戦を迎えた。その頃は、旧日本海軍工場の近くの広場には製造途中の魚雷艇が放置してあり、山には旧日本軍の高射砲の陣地が残っていた。また、そこには色々なジャンク部品があり、小学生だった廣島さんは珍しい部品を家に持ち帰っては分解して遊んでいた。これらジャンクの中から取り出した銅線とトランスの鉄心を利用して、模型の電気機関車を動かすための変圧器を作ったり、竹のボビンにコイルを巻いて鉱石ラジオを作ったりしていたという。


現在のアンテナ

さらに中学校に入学すると、真空管式ラジオを組み立てるようになった。当時使っていた真空管は2.5V管のUZ-57、UZ-58や、6.3V管の6C6、6D6等のST管だった。1940年代後半の当時、富士製作所(スター)と春日無線(トリオ)からIFTやコイル類が市販されていたが、短波が受信できるコイルパックは中学生の小遣いでは手が届かない程高価だった。そのため廣島さんは中波受信機を自作して1951年に開始された日本の民間放送局のBCLとしてベリカード集めに励んだ。

アマチュア無線に思いを馳せたSWL時代

夏休みのある日、いつものように受信機を操作していると、突然、JA6CNのコールサインで交信する大きな声が飛び込んできた。ダイヤルに関係なく聞こえるあまりにも強力な信号にびっくりし、廣島さんは、すぐに外に飛び出して隣近所を探したところ、なんと自宅から4、5軒先の家にハシゴ型フィーダーを使った7MHz用フルサイズのダブレットアンテナが建っているのを発見した。「大きなアンテナに圧巻され胸がドキドキしたことを覚えています」と話す。

さっそく、模型の電気機関車や飛行機でいつも一緒に遊んでいた同級生の松本さん(現JA6XE)と一緒にシャックを訪問し、局長のJA6CN中山さんから無線機器を見せてもらった。当時、東京の日大の学生だった中山さんは神田でジャンク部品を集めて無線機を組み立て、夏休みを利用し故郷に持ち帰って運用を始めたところだった。初めて見る無線機に二人は興奮したという。「1625のファイナル、1619PPの変調器、大きな黒縁の丸いメーター、6AG7のメタル管と海軍タイプの大きな水晶発振子等、全ては夢の世界にいるように思えました」と廣島さんは話す。これをきっかけに、明けても暮れてもアマチュア無線への思いが頭から離れず、学校の授業は上の空となった。

JA1へQSY、横浜クラブに入会

高校1年の時、父親の転勤に伴って生まれ故郷の横浜へ戻った廣島さんは、横浜港に程近いところにある高校に通うことになったが、高校の近くにはジャンク屋もあって下校時に立ち寄ることができるなど、九州在住時とは異なりアマチュア無線を始めるのに大変恵まれた環境だった。

当時のジャンク屋ではST管、GT管、MT管を始め高耐圧のバリコン、メーター類、トランス、水晶発振子等、多種多用のラジオ部品が入手可能だった。廣島さんは1-V-1の短波受信機を自作してアマチュア無線のSWLを開始した。横浜では九州とは異なり、毎日多くの局が入感した。高校の同級生の中にハムに興味を持つ友人がいたこともあって、高校2年の時、廣島さんは同級生と一緒に横浜クラブにSWLとして入会した。当時の横浜クラブのミーティングにはJA1AN、JA1AX、JA1BZ、JA1CB、JA1CP、JA1CW、JA1GC,JA1KSをはじめ、多くの2文字コール局が参加していた。その頃、関東のコールサインはJA1のサフィックス2文字がなくなり、ちょうど3文字のAがスタートしたところだった。

クラブでは、アンテナの話、DXとの交信の話、50MHzの電波伝播の話など盛んだった。この時初めてJA1KS栗山さんからキング・ソロモンの法則を聞き、これが開局後に大変役に立ったという。その他の先輩ハムからもアドバイスを受けながらSWLを続けているうちに、廣島さんのアマチュア無線に関する知識は徐々に深まり、当時のJA局の標準設備と言われていた高1中2の短波受信機を製作し、開局へ向けての準備も着々と進んでいった。

また、SWLを続けるうちにヨーロッパの局の高速電信や、国内のJA1VX、JA6AK、JA8AA等がDXと交信している時の電信に魅せられ、電話よりも電信を聞いている時間の方が遥かに多くなっていった。ちょうど大学に進学直前だった廣島さんは、父親に「将来は通信士になって世界の海を航海したい」と相談したところ、「孝之の時代には電信はなくなるだろうから電信は趣味に止めておきなさい」と言われ、プロの通信士になることはあきらめて、普通の電気を専攻する道を選んだ。さらに余談ではあるが、父親からのアドバイスは就職のときにも、「真空管はなくなって、これからは半導体の時代になる」と助言され、廣島さんは半導体を得意としていたソニー株式会社に就職を決めている。

JA1BNWを開局

当時のアマチュア無線の無線従事者国家試験の合格率は1アマが約1%、2アマが約5%で、遊びとはいえ開局への道のりは厳しいものだった。廣島さんは、早く電波を出したい一心からまずは合格率が少しでも良い2アマからスタート、1957年7月、大学1年のときに免許を取得した。そして7050kHzと7087.5kHzの水晶発振によるA3 2波と、52MHzのA3、10Wの設備でJA1BNWを開局した。当時の免許状は放送局と同じ大型サイズで、当時の郵政大臣 田中角栄の名前が記されたものだった。


1957年 開局当時のJA1BNW

1959年4月には、電信・電話級の国家試験が初めて実施され、一挙に1万7千人近い受験者が殺到してJAのアマチュア無線界に大革命が起きた。一方、旧2アマには新2アマへ移行するための5年間の移行期間が設けられ、その間に電信の試験に合格すると新2アマの資格が与えられる一方、合格しなければ電話級へ格下げとなった。

電信の試験に合格した廣島さんは新2アマになり、1961年には28MHzバンドの追加と、電信、電話の免許が与えられた。さらに当時はまだまだ少数だったSSB(A3J)の免許を取得するため、FT241Aのジャンクのクリスタルを組み合わせたエキサイターを製作し、早々に設備の追加申請を行ってSSBによるDX通信にも備えた。

廣島さんが新2アマに移行しておよそ2年後には新2アマに14MHzおよび21MHzが許可されるようになり、1アマ同様オールバンドで運用できるようになった。その頃1960年中盤からは、代表的なDXペディショナーによる世界ツアーが始まった。W9WNVドン ミラーとK7LMUチャック スウェイン、W4BPDガス ブローイング、W6KG/W6QLコルビン夫妻などである。JAのDX熱も高まり、パイルアップの激しさが増して、本格的にDXを楽しむにはパワー不足が感じられるようになった。そのため廣島さんは1967年に1アマを取得、500WにQROして本格的にDXCCを目指した運用を開始した。「ドン・ミラーの強力な信号とCODAXのキーヤーから打ち出されるハイスピードのCWとクールな運用手法には大きな刺激を受けました」と話す。

しかし、DXCCのスコアも順調に伸び、波に乗り出した時に、仕事の都合で家族共々ブラジルへ駐在することになり、サイクル21のピーク期に、日本でJA1BNWのコールでの活動はお預けになってしまった。

日本国籍では無線ができない国ブラジル(PY)への赴任

廣島さんは、1978年から1980年の3年間、ソニーの駐在員として家族と一緒にサンパウロ市に滞在した。それまでも出張ではちょくちょく渡航していたが、駐在することに決まったのだった。当時のブラジルでは完成品の家電製品は輸入禁止だったため、家電メーカーにとってマーケットに最も近い現地での商品設計と生産工場の稼働が急務だった。廣島さんはこの時、ブラジル工場の技術部門の責任者として滞在した。

ブラジルでのアマチュア無線は大変活発だったが、日本との間に相互運用協定が締結されていなかったため日本人がブラジルで運用することは許可されていなかった。それでも、廣島さんは受信だけでもできればと思い、ヒースキットのSB102をラジオとして引っ越し荷物と一緒に持ち込んだ。「当時はガイゼル大統領下の軍事政権の国であったブラジルで、PY-JAの相互運用協定も締結されていない状況下、日本人が開局することは容易なことではありませんでした」と話す。

1980年頃のサンパウロ日本人学校には小学生と中学生合わせて約1200人の生徒が在籍していたし、駐在員家族の数はサンパウロ市だけでも約4000家族といわれていたので、当時相当数のJAのハムがブラジルに駐在していたと考えられるが、ブラジルに移住して仮に永住権を取得してもブラジル国籍を取得しない限り日本人はブラジルでは開局できなかったため、PYのコールでアマチュア無線局を開局した日本人は過去に1人もいなかった。しかし、廣島さんは免許取得をあきらめず、日本のハムだということは最初から伏せておいて、米国のハムだという事でブラジルでの開局のための作業を密かに開始した。

ブラジルでのポルトガル語の電波法規を良く読んでみたところ、免許取得の条件は、
(1)ブラジル国籍を取得している
(2)ポルトガル国籍でもブラジルに在住していればOK
(3)ブラジルと相互運用協定を締結しているCT,DL,EA,F,G,HB,OZ,SM,VE,W,CE,CP,CX,HK,HP,LU,OA.PZ,TI,YV,ZPの国籍があればOK
となっていた。

一方、米国のFCC免許は国籍に関係なく付与されていたので、廣島さんはそこに目を付け、ARRLの友人(WA6IDN/WA1ZQP)に問い合わせてみた。また同時に、かつて横須賀に住んでいた親友であるW1HCQ(ex:KA2BB)にも助けを求め、彼はARRLへ出かけて行ってまで廣島さんのブラジルでの開局のために事情を説明してくれた。しかしARRLといえどもブラジルの現地事情は分からず受け入れ側次第だという事になり、LABRE-DF(ブラジルのアマチュア無線連盟)の会長であるRermy Floves(PT2VE)を紹介してくれた。さっそく廣島さんは、Rermy Floves 氏に手紙を出したところ、ダメだという返事ではなく、居住地であるサンパウロの電波監理局(DENTEL-SP)とコンタクトを取るようにとの返信が届いた。そこで廣島さんは地元のDENTEL-SPにLABRE会長の紹介状と、FCC免許N1APF(現W1BNW)の免許証を持参したところ、すぐに無線局の開局に必要な書類として
(1)無線局開局申請書
(2)FCCのライセンス
(3)ブラジルでの納税証明書
(4)日本での無犯罪証明書
(5)電波利用料(年間約6,000円―LABRE-SPの会員料含む)
(6)パスポート
の一式を提出するようにと言われた。

申請書類提出後、約10日で廣島さんの名前のイニシャルに合わせたPY2ZTHの免許が発行された。1980年2月27日付の無線局免許は日本人に初めて与えられたブラジルのアマチュア無線局の免許とのことだった。大きなサイズの免許状には、免許内容としてオールバンド、オールエミッション、出力1kWと記載されていた。ブラジルの免許制度は米国のFCCと同様、包括免許であるため無線設備の指定事項等の詳細は表記されておらず、免許の有効期間は廣島さんのビザの有効期間に合わせてあった。


PY2ZTHの無線局免許状

さっそく廣島さんはアンテナとしてTETの21MHz3エレモノバンド八木と、Hy-Gainの18AVQを14階マンションの屋上に設置し、ヒースキットSB102を使ってオンエアを開始した。コンテスト参加時はローカル局がSB220を持ち込み、応援してくれたという。


サンパウロ市内の自宅に開局したPY2ZTH

また、Primeiro Encontro JA-PY“JAとPYの最初の出会い”ということで日系ブラジル人のハム達と一緒に、サンパウロ郊外で移動運用を行い、PY2DM吉沢さんをはじめ、皆から祝福してもらったという。


"JAとPYの最初の出会い"
PY2ZTHの開局を祝ってくれた日系ブラジル人ハムたち
JA7AA PY2UNP PY2WD PY2DM PY2ZTH JR4DVK PY2DRC PY2DRQ

その年の5月には、日本の連休に合わせて、21MHz CWで運用したところ、JAからの大パイルアップを受け、あっという間にJCC100が完成するなど素晴らしい体験をすることができた。廣島さんはPY2ZTHを約8ヶ月間運用し、2200局(内JAは500局)、130エンティティーと交信、またコンテストでは1980年のWAE電信、およびCQWWDX電話に21MHzで参加し、それぞれ入賞することができた。


PY2ZTHのQSLカード

1990年代に入ってからはブラジルの法規が多少緩和されたのか、レアーケースかもしれないが、PY3ZYM/1(PY0ZFB、PY0ZFF)、PS7ZYM麻生田(JH2MRA)さん夫妻、ZY0FZI/PS0ZI沼口さん(JH1ROJ)、PY0FT谷本さん(JA1FQI)等、日本人による運用の電波が時々聞かれるようになった。

アマチュア無線をやってきて良かったこと

HFでのCWによるQSOが大好きな廣島さんにとってはDXingとCWのコンテストに参加することが日常の楽しみの大部分になっているが、「アマチュア無線をやってきて良かったことは、電波を通じて世界にお友達ができた事だと思います」、「ブラジルでの開局直後はCWのみでDX QSOがほとんどでしたが、N2JA塚本さんにJANETクラブへの入会のお誘いを受けた事がきっかけで、海外に滞在している多くの日本人ハムの皆さんと電話でのQSOも始めるようになりました」と話す。

「日本の23倍もの面積があるブラジルで、受信機に火を入れてハムバンドをワッチしますとポルトガル語とスペイン語のQSOばかりでした。しかし21.360MHz SSBでのJANETクラブのオンエアーミーティングにチェックインした時の驚きは、日本語で話すJA局でない外国コール局のグループでした。それは1980年5月18日のことでした」、「海外で暮らし日本語にあまり接する機会がない地域に住んでいた私には、N2JA塚本さん、N2ATF小林さん、YV1CCT石川さん、WB2ZTB山口さん、K2VZ岩瀬さん、JA1PIG/PZ臼井さん、JG3STV/N2JA服部さん、N2BHY宮城さん、KB2MW杉山さん、N2ATT荒川さん等とのQSOを通じて、日本と大きなパイプラインができたような感覚になりました」と話す。

JANETクラブの活動は約35年経った現在も、米国西海岸W6ZEN山本さんのNCで継続されている。一方、ヨーロッパにおいてもDF2CW壱岐さんが中心となり、ドイツ人と日本人を中心としたJAIGクラブが活動している。2013年10月に横浜で開催されたSEANETコンベンション横浜では、協力クラブの1つとしてJANET/JAIGも参加し、国内外の多くのハムや、その家族の方々とも交流を深めることができた。


SEANETコンベンション横浜2013でのDF2CW壱岐さん夫妻(中央)とJAIG/JANETのメンバー各局

廣島さんは、今、JANET/JAIGメンバーで構成されている野外活動研究会のクラブ局JR0ZEWにて、自然を楽しみながら語り合い、泊りがけで好きな無線や山登り等を楽しみ、また温泉巡りをしながら移動運用で湯けむりアワードのパイルを楽しんでいる。「これからは大きな設備ではなく、簡単な設備でCWやデジタル通信が楽しめる方法を見つけて行きたいと思います」と話す。
なお、廣島さんは今号の連載記事「海外運用の先駆者達」にも登場していますので、ご覧ください。


長野県の白馬村に設置した野外活動研究会クラブ局「JR0ZEW」

このコーナーでは、アマチュア無線の様々な楽しみ方に挑戦するハム(アマチュア無線家)を紹介します。
自薦も歓迎しますので、info@fbnews.jpまで、写真1、2点と紹介文(300字以内程度)を添えてご送付下さい。
採用させていただきました方には粗品を差し上げます。
バックナンバー

頭の体操 詰将棋

3人娘アマチュア無線チャレンジ物語

  • 連載記事一覧
  • テクニカルコーナー一覧

お知らせ

発行元

発行元: 月刊FBニュース編集部
連絡先: info@fbnews.jp