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海外運用の先駆者達 ~20世紀に海外でアマチュア無線を運用した日本人達~

その121 今回から21世紀最初の2年分を紹介します。2001年(1)
「あの人は今(第46回)」JH3OII中村千代賢氏

JA3AER 荒川泰蔵

2023年4月3日掲載

今回から21世紀最初の2年分を紹介します。

この連載のサブタイトルは「20世紀に・・・」としていますが、既にアンケート等を頂いていた21世紀の最初の2年分に、筆者の記録も交え3回に分けて紹介させて頂きます。今回はその2001年の1回目で、オセアニアとアジアです。2001年のSEANETコンベンションは、東マレーシアはサバ州のコタキナバルで開かれ、参加した多くの日本人が特別記念局9M6SEAのゲスト運用を経験しました(写真1)。尚、今月の「あの人は今(第46回)」は、JH3OII中村千代賢氏の紹介です。


写真1. 東マレーシアのコタキナバルで開かれた、第29回SEANETコンベンションの参加者達。

2001年 (東マレーシア 9M6SEA, 9M8AER)

JA3AER筆者は、この年開かれたSEANETコンベンションに参加した記録を残していました(写真2~4)。「去る2001年11月9日から3日間、今世紀最初のSEANETコンベンションが、東マレーシアはサバ州コタキナバル市で開かれました。会場となったThe Pacific Sutera Hotelは海岸に面した素晴らしいロケーションにあるリゾートホテルで、ホストとして主催したSARS(Sabah Amateur Radio Society)の発表では、18エンティティから108名(内JAからは17名)の参加でした。筆者はJA3AA島さん達7名のグループで、関西空港からクアラルンプール経由で到着したのですが、9M6LK, Lawrenceさん他3名が空港まで出迎えに来ていて、会場であるThe Pacific Sutera Hotelまで車で送ってくれました。早速SEANET2001の受付で3日間の会費US$85を払ってチェックイン、既に各地から訪れたハム達の賑やかなアイボールQSOの輪に加わりました。例によって特別記念局9M6SEAがホテルの一室に設置されており、私も運用させて頂きました。FT-900, FT-747GX, TS-430S, IC-207と日本製のトランシーバーが並べられ、メインはFT-900と屋上に設置された3エレ・トライバンダーの組み合わせで、14MHzと21MHzを中心に参加者が交互に運用を楽しんでいました。JAの方角は直ぐ海とFBなロケーションだったこともあり、QSOの相手はほとんどがJA局でした。


写真2. (左)9M6SEA局を運用するJA3AER筆者。
(右)SEANETコンベンションの会場付近の海岸をモチーフにした9M6SEAのQSLカード。

初日の午後7時から盛大に開催された歓迎夕食会では、SEANET2001の組織会長である9M8NS, Tham Nyip Shenさんの歓迎挨拶の後、JA1AN原昌三JARL会長のメッセージをJA9AG吉井さんが紹介、JH3GAH後藤さんが代読しました。翌10日は、グループ写真撮影後、バスに分乗して観光に出かけ、夜はGala Dinnerが始まりました。民族衣装などの正装から、カジュアルな服装まで入り混じって賑やかです。9M6MA, Hj. Hassanさんの司会で始まり、9M8NS, Tham Nyip Shenさんの歓迎挨拶、MARTSの元会長9M2RS, Rashidさんの挨拶に続き、Official Opening of SEANET2001としてドラが打ち鳴らされ、民族舞踊を鑑賞しながらの夕食が始まりました。賑やかな談笑の夕食が終わった頃、SEANETコンテストの入賞者の表彰式があり、続いて恒例になった各国毎のパーフォマンスが披露されましたが、JAはJA5BM西川さんとJA5TFF藤原さんが準備してくれたカラオケに合せて「瀬戸の花嫁」を合唱しました。


写真3. (左)JA1AN原昌三JARL会長のメッセージを代読するJH3GAH後藤さんとJA9AG吉井さん。
(右)Gala Dinnerの舞台で、日本の歌「瀬戸の花嫁」を合唱する日本人グループ。

最終日の11日は、午前9時頃から9M2KN, Dr. Kenさんの司会でテクニカルセッションが始まり、筆者はJA1RJU小笠原さんと一緒に、D68CコモロDXペディションの結果を、スライドで示しながら報告させて頂きました。そして、2003年の開催地を討議の結果、西マレーシアのジョホールバル市と決め、2002年度の開催予定地パース市(オーストラリア)の紹介があり、SEANETのバナーがSARS会長9M6ET, StephenさんからパースのVK6XC, Benさんに手渡され、SEANET2001は幕となりました。(2001年12月記)」


写真4. (左)D68CコモロDXペディションの報告をする、左からJA3AER筆者、司会者9M2KN, Dr. Kenさん、JA1RJU小笠原さん。
(右)次期開催地のオーストラリアのパースへSEANETのバナーの引き継ぎ、左から9M6ET, Stephenさん、VK6XC, Benさん

JA1CIC貫井潔氏は、SEANETコンベンション2001に参加して9M6SEAを運用され、JA局宛てのQSLカードを代理で発行する旨のお手紙を頂きました(写真5)。「- 手紙より一部抜粋 - コタキナバルではお世話になりました。私は帰途、11月11日の夕刻にシンガポールに到着し、友人宅に滞在の後、14日の夜に帰宅しました。9M6SEAでJA局とのQSOの概略は、14~28MHzのCWとSSBで、私が担当しました局が約300局、その他の日本人の運用が約70~80局位だったと思われます。全体で400局位のQSOサービスだったと思われます。(2001年11月記)」


写真5. (左)SEANETコンベンション2001の9M6SEA局を運用するJA1CIC貫井潔氏。
(右)世界遺産に登録されたキナバル山をモチーフにした、9M6SEAのQSLカード。

JA3AER筆者は、東マレーシア・サラワク州での運用の経験を記録していました(写真6~11)。「SEANETコンベンション2001に参加した後の11月11日から14日まで、関西のハム達と共にムルへ行き、グヌン・ムル国立公園の熱帯雨林のジャングルトレッキングやアマチュア無線の運用を楽しみました。ムルはボルネオ島北部サラワク州にあり、ムル山にある巨大な洞窟群が2000年にキナバル山と並んでマレーシア初の世界遺産に登録されました。今回、色々とサポートしてくれた9M8DBジョニーさんの薦めにより。無線はさておき?「世界遺産のムル」へ行こうということにしたものです。準備はJH3GAH後藤さんが担当し、免許関係は1年前から、旅程は4ヶ月前から始めてくれましたが、テロの関係で出発直前まで変更や訂正で苦労されたようです。免許は11月より1月までの3ヶ月のテンポラリーライセンスで、サフィックスは日本のコールサインと同じ3文字、2文字の人はJapanのJを頭につけて3文字となりました。従って私のコールサインは9M8AERです。但し、後藤さんは以前から正式免許9M8TGを受けておられました。


写真6. 9M8AER筆者の臨時免許状の表と裏。

11日の午後、ムルを目指して我々7名はホテルを発ち、ローカル空港へ向いました。空港には誰もいなく、しばらくして2階から職員が降りてきて搭乗手続きが始まりました。しかし荷物検査は電気が来なくてX線検査が出来ず、全部広げての目視検査になりました。体重計のような秤に荷物を乗せて、体重は自己申告。搭乗券は小さなシールを胸に貼ってくれましたが、風で飛んでしまっても乗れるのかなと心配になりました。暑くてコーラを買いに行ったら停電で自動販売機も使えません。飛行機はDornierという19人乗りの高翼双発ターボプロップ機で、密林の曲りくねった川を下に見ながら1時間の飛行であこがれのムルへ着きました。


写真7. (左)ローカルの空港で、ムルへの飛行機を待つ一行。左からJA3AER筆者、JA3ART海老原さん、JH3GAH後藤さん、JA3AA島さん、JA3UBとJR3MVF三好さんご夫妻。
(右)滑走路で待機するVision Airのムル行きの飛行機、Dornier 19人乗り高翼双発ターボプロップ機で、機体にはN420VAと米国のコールサインが表示されている。

ムル空港から車で約5分、ホテルRoyal Mulu Resortに着きました。ホテルは周りの自然にマッ チした高床式のコテージ風シャレーで、桟橋で各部屋につながっています。ここを拠点にトレッキングやロッククライミング、マウンティンバイク、カヤック等のアウトドアスポーツが楽しめます。チェックインの後、滞在中「世界遺産のムル探索」のガイドをしてくれるアレックスさんが紹介され、MULUのロゴマーク付きのデイパックや探索グッズが渡されました。日中は世界遺産を探索し後は無線運用と言う事になり、寝室用とは別に同軸が取込みやすいように一番端の部屋を無線室用に借り、24時間の運用を可能としました。暗くなるまでにアンテナをと全員で作業にかかりました。ホテルのスタッフに長い棒を頼んだら木の枝のような短い物しかなく3本つないでポールとしました。ホテルのスタッフにチップを払い、高い木に登ってもらったりして何とか電波が出るようになりました。ジャングルの中、廻りには大きな山があり、あまり良いロケーションではありませんが、3.5、7、21MHzの3バンド用DP、10MHzツェップ、14MHzツェップ、18、24MHzの2バンド用DPと、4つのアンテナを張ることが出来ました。リグはFT-100DとFT-817で、皆さんが第一声を筆者に譲って下さり、ここからの第一声は9M8AERの21.370MHz SSBでした。


写真8. (左)アンテナを張るメンバー達、左からJA4HCK馬場さん、JA3UB三好二郎さん、JA3AA島さん。
(右)木に登ってアンテナの端を枝に取り付けてくれるホテルのスタッフ。


写真9. (左)参加者の集合写真。前列左から9M8AER筆者、9M8JAA島さん、9M8JUB三好二郎さん、後列左から9M8HCK馬場さん、9M8TG後藤さん、9M8MVF三好京子さん、9M8ART海老原さん。
(右)9M8AERを運用する筆者。

翌日の12日、いよいよジャングル探検、アレックスさんの先導で出発、デイパックの中身は懐中電灯、水、雨具、非常食、カメラなどで、カメラ持込は有料でした。コースは熱帯雨林トレッキングと洞窟探索。洞窟と言っても日本の鍾乳洞とは違い、中にビルが入りそうな大きな場所や、山の上まで吹き抜けていたり、川があったり、小山くらいの登り降りがあったりと、スケールが違います。トレッキングコースは自然保護のためでしょうか、吊り橋のような道が作ってあり、歩きやすくなっています。このコースを何キロも歩くわけです。洞窟探検後の午後4時頃、入口付近の休憩所でコウモリの大群が出てくるのを見ようと待ち構える人たちに加わりましたが、雨が降り出し、コウモリは出てこないし、薄暗くなってきたので帰ろうと言うことになりました。皆歩くペースが違うので一人ひとりバラバラになってしまい、暗闇の中、雨と汗でカッパの外も内もビショビショ、靴は水浸し、蛙などいろんな動物の合唱を聞きながら心細く帰りました。夜のミーティングで、我々は無線をしに来たのだから、明日からのコースは費用だけ払ってやめようという事になりました。


写真10. (左)ジャングル探険隊勢揃い。左からJR3MVFとJA3UB三好さんご夫妻、JH3GAH後藤さん、JA3AA島さん、ガイドのアレックスさん、JA3ART海老原さん、JA3AER筆者、JA4HCK馬場さん。
(右)ジャングルの道は、観光客の為に吊り橋の様に板が並べられ、手摺まで取り付けられていた。

しかし翌13日、アレックスさんは「せっかく遠い日本から来たのだから行ってほしい」と。全員行くことにしました。この日はボートで上流へ行って原住民の生活を見学、ロングハウスを見学した後、2つの洞窟の探索です。睡眠不足と過労で皆疲れていますが楽しく廻りました。夜7MHzでQSO中、サポートしてくれた9M8DBジョニーさんとQSOが出来、一人ひとりお礼を述べました。


写真11. (左)観光用のボートに乗り込むメンバー達、(右)ボートでのクルージング。手前からJH3GAH後藤さん、中列左からJA3UB三好二郎さん、JA3AA島さん、後列左からJA3HCK馬場さん、JA3ART海老原さん。

最終日の14日、この日の午前中は、コース参加者4名が別の川を遡上し、滝に打たれるなどして大自然を満喫した様です。我々居残り組は疲労回復と最後の無線を楽しみました。午後からは全員でアンテナの撤収作業に入り、16時30分、往路と同じVision AirのDornier機で帰途につきました。(2001年12月記)」

2001年 (パラオ T88FS)

JH6RTO福島誠治氏は、パラオから移動運用したとアンケートを寄せてくれました(写真12及び13)。「6年ぶりのパラオ移動でした。前回は古いコールKC6FSでしたが、今回は新しいT88FSの初使用でした。11月23日から26日の朝まではペリリュー島で、JA6VZB/T88JA森山聡之氏とご一緒しました。また、11月26日の夜はコロールのVIPホテルからQRVしました。JA6VZBはCQ WW CWコンテストの為の移動なので、コンテスト中はかぶったりすると悪いので、私は6mと衛星通信に専念しました。AO-40の準備もして出かけたのですが、準備不足と技術不足のため、AO-40にはQRV出来ませんでした。6mはJAのみでしたが、約120QSO出来ました。コンテスト時間外は、主として10MHzと18MHzにQRVしました。いずれのバンドでも、ヨーロッパのパイルは強烈なものでした。パイルを浴びるのは大好きなので、また出かけたいです。(2001年12月記)」


写真12. T88FS福島誠治氏の免許状。


写真13. T88FS福島誠治氏のQSLカードの表と裏。

2001年 (中国 BY4AA, BY4BJA, BY4CTZ, BY4AOH)

JA3AER筆者は2001年3月の上海出張の際、BA4AA徐儒(Xu Ru)さんに会う機会を得て、クラブ局のゲスト運用をさせて頂いたことを記録していました(写真14~18)。「仕事で12年振りに来た上海は、到着した浦東(Pudong)空港を含め、変貌した上海に驚きました。


写真14. (左)高層ビルが立ち並ぶ上海の繁華街。(右)電気製品の展示会では、多くの日本メーカーも競って商品の展示をしていた。

この機会に12年前JA3UB三好二郎さんに紹介頂いて、北京で会った事のあるBA4AA徐儒(Xu Ru)さんを訪ねました。BY4AAを運用させて頂こうと運用許可を北京に申請をしたのですが、彼は老朋友として迎えてくれ、BY4AAでの運用はもとより、週末はBY4BJABY4CTZBY4AOHの各クラブ局を案内して、ゲストオペの機会を与えてくれました。主にBY4AAとBY4AOHでの21MHzと14MHzのSSBで、JAを中心に約170局とQSOさせて頂きました。(2001年5月記)」


写真15. (左)上海のクラブ局BY4AAにて幹部達との記念写真、中央がBA4AA徐儒(Xu Ru)さん、その左側が筆者。(右)BY4AAのQSLカード。


写真16. (左)上海市静安区の青少年活動センター内に設けられたBY4BJA局にて、左からセンターの主任Dai菊生さん、筆者、台長BG4DJW, Feng景華さん、BA4AA徐儒(Xu Ru)さん。後ろの壁には「EME月面反射通信実験室」のプレートが掛けられていた。(右)BY4BJAのQSLカード。


写真17. (左)上海市同洲模苑学校のBY4CTZ局にて、前列左からSWL島田さん、学校の先生、筆者、BA4AA徐儒(Xu Ru)さん、学校の先生、後列の6人は学校の生徒達。(右)無線機の前で学校の先生や生徒達に囲まれての記念写真。


写真18. (左)上海オリンピックホテル内のクラブ局BY4AOHを運用する筆者。(右)BY4AOHのQSLカード。

2001年 (西マレーシア 9M8AER/2)

JA3AER筆者は2001年12月のマレーシア出張の際、日本クラブのクラブ局を訪問した事を記録していました(写真19及び20)。「マレーシアへ出張中の12月9日、クアラルンプール在住の元マレーシアアマチュア無線連盟会長9M2RS, Rashidさんの案内で、日本クラブ内のアマチュア無線クラブ局9M2JKLを訪問する機会を得ました。出迎えてくれたのは会長の9M2GG(JA8EZI)高岡さんと、副会長の9M2BZ(JH1LKO)鶴岡さんで、両氏はここマレーシアに長年お住まいです。鶴岡さんは私が訪れる度に「お帰りなさい」と迎えてくれています。日本クラブには幼稚園や日本語学校が併設されていて、日本レストランやお店などもある大きな施設ですが、その一室に無線室が設けられ9M2JKL局が設置されています。


写真19. (左)9M2JKLのQSLカード。(中央)9M2JKLのシャックにて、左から9M2BZ(JH1LKO)鶴岡さん、9M2RS, Rashidさん、9M2GG(JA8EZI)高岡さん。(右)9M2GG高岡さんのQSLカード。

ここから21MHz, SSBで9M2JKL局をゲストオペさせて頂きました。コールサインは9M8AER/2を使用してのQRVでしたが、9M8AERの臨時の免許によるものです。これはSEANETコンベンションの帰途ムル(サラワク州)で運用したときの免許状を9M2RS, Rashidさんに見せたところ、9M8/JA3AERのようなコールサインの場合は2エリア(西マレーシア)では運用できないが、9M8AERなら/2を付けて運用してもよいとのことで、それに従ったものです。短時間の運用でしたが。JAを中心に12局と交信させて頂きました。(2002年1月記)」


写真20. (左)9M2JKL局を借用して9M8AER/2を運用する筆者。(右)9M8AER/2のQSLカードの表と裏。

「あの人は今 (第46回)」JH3OII中村千代賢氏

JH3OII中村千代賢氏の近況は、既に2020年11月号(その92)の「あの人は今」で紹介させて頂きましたが、そこで触れておられたカナダの大学でのクラブ局VE2UNが、中村氏の海外運用のルーツであるらしく、50年前のその頃から海外で出会った忘れ得ぬアマチュア無線家についての、随想を寄せて頂きましたので紹介させて頂きます(写真21~25)

思い出の人達1 – VE2DCWとVE6WQ兄弟、及びWA2UPC: 1972年に私が住んでいたカナダでは、まだ相互運用協定はおろか永住権がなければ受験資格もなく、1973年にダメ元で日本の免許の翻訳証明を日本国総領事館でとって、モントリオールの通信省(DOC)に乗りこみました。日本人の高校生がアポ無しで行ったのに、局長が部屋に招き入れ丁寧に対応してくれましたが、やはり相互運用協定が無いということで返されました。一方、カナダから日本の郵政省に相互運用協定の申し入れをしているという情報を聞いていたので、郵政省に手紙で問い合わせますと、半年後電波監理局の課長からエアメールで回答があり「カナダ通信省から申し入れがありましたが、日本としては相互主義のもと社団局の一員としての許可する用意があると回答」という内容でした。つまり何も進んでいないわけです。その2年後、入学予定の大学のクラブ局VE2UNの免許人であるVE2DCW,Daveに会う機会があり、ここから進展しました。彼はCQ誌1971年6月号に同クラブのキャプテンとして紹介されていた親日家でした(写真21の左)。そして彼に大学のクラブ局VE2UNの運用はDOCの了解が得られれば問題ないというレターを書いてもらい、再度DOCに乗り込みました。すると驚いたことにDOCから「日本との相互運用協定にもとづき」許可する旨の回答が来ましたが、しばらくしてDOCは日本と相互運用協定がないことに気づき、私の運用許可は一時的と訂正してきました。当時のカナダアマチュア無線連盟CARFの機関誌の記事(写真21の右)にある“a Japanese student”とは私のことです。


写真21. (左)クラブ局VE2UNが紹介されたCQ誌1971年6月号の記事。VE2DCW,Daveさんや、WA2UPC,Blohmさんが紹介されている。(右)カナダアマチュア無線連盟CARFの機関誌の記事。

Daveはその後投資家になりFBなタワーを別荘に建てVE2QVやVE3RTUとしてQRVしていましたが、3年前にベトナムからビジネスクラスで帰国した直後、エコノミークラス症候群で急逝しました。彼の兄VE6WQ,Joelはコンテスターで、9 Band DXCC保持者なのでQSOされた方があるかもしれません。1976年に、アメリカでは日本人に受験資格が与えられたことをCQ誌で知り、当時FCCにあったConditional級(遠隔地で受験できるGeneral級相当)をカナダで受験すべく申し込みましたが、タッチの差で同クラスの制度が廃止になっており残念ながら受理されませんでしたので、その半年後ボストンまで飛んで受験しました。尚、上述のCQ誌の記事で同時に紹介されているWA2UPC,Blohmは、10年前まで北京経済大学で教授をしていましたが、今はカナダに住みメディアでアクティブな論客として時々WSJ(ウォールストリートジャーナル)に載ります。彼のもう一つの特技は、早い手書きでも文字がブロックレターで美しいことです。私はそれを見習い、ログを素早くかつ綺麗に書くように心掛けましたが続きませんでした。

思い出の人達2 – VA1CQ: あともう少しで日米相互運用協定締結かと思われた1983年、関西の外国人向け雑誌Kansai Time Outに、近日締結見通しなのでハムはいないかと掲載したところ、出会ったのが現VA1CQ,Murrayです(写真22)。当時彼は大阪に住んでいたのですが、カナダとの協定はまだ時間がかかりそうということで、日本人と結婚し一旦カナダに帰国しました。後年話を聞くと、彼は当時アマチュア無線機メーカーの英文マニュアルライターとして求職中であったそうで、以来、彼は日本のハム機器のマニュアルを手掛けています。皆さんが今お使いのリグの英文取説も彼の作品かもしれません。


写真22. 左からVA1CQ,Murrayさんと、JH3OII中村千代賢氏。

思い出の人達3 – DU1RFA: その後1984年に家業に転職した私は、フィリピンの手袋縫製工場駐在になりました。マルコス政権下で、フィリピンなど金銭を渡せば免許は下りるなどと安易な意見を言う日本人もいましたが、実際はなかなかそうはいきません。後ほどわかったことですが、行政担当官がもっとも気にすることはカネよりも、特別許可を出すと派閥各方面から責められはしないかということです。そこで私は各派閥のドンと思われる重鎮ハムにあいさつ回りし、その中で助けてくれそうな人を探しました。それがDU1RFA,Rafael(写真23)でした。彼は典型的な富裕層で、家の中はまるで美術館。中でも感心したのは、置物でも機械でも非常に大切に使うことで、全ての置物、機器、そしてリグにも専用クロスカバーを縫製して掛けていたことです。愛車は骨董品のFIATでしたがピカピカ新品同様で、中のモービル機は勿論のこと、アクセル、ブレーキペダルにまで専用ホコリよけをセットしていました。それを機に私もマニピュレータにはカバークロスを掛けるようになり、お陰で何十年経った今もピカピカです。Rafaelは私を富裕層の社交場「フィリピーノクラブ」へ連れて行って、色んな方々を紹介してくれたのですが、それから約半年後の選挙及び人民革命で、コラゾン・アキノ女史が大統領就任を誓約した場所こそが同クラブでした。


写真23. DU1RFA,Rafaelさん。

思い出の人達4 – UA0FL/R3BL: 私が無線機メーカーに勤めていた1990代半ばの或る日、樺太からエアメールが来ました。送り主はUA0FL,Nikolay、足を怪我して入院中で時間をもてあましているから翻訳でもしたいとの主旨でした。当時ソ連が崩壊して間もないエリツィン時代で郵便は可能、FAXも出来つつある頃でしたので、早速カタログや取説の翻訳を頼むこととしました。彼は国営通信会社のエンジニア、アマチュア無線では2mでJCCを完成したり、北海道のハムに特別運用許可をとったりとアクティブな人でした(写真24の左)。彼の勤務先は国営から民営になり、そして2000年代にモスクワに引越し、日本でいう第二電電のような携帯電話会社から英国に企業留学してマスターをとったあとTele2社のエカテリンブルグエリアの営業部長となりました。私は1995年のモスクワ通信展、そして2006年の出張で彼とeyeballしました(写真24の右)。今はモスクワダウンタウンの集合住宅に住んでいますが、ロシアのことですから郊外にダーチャ(別荘)を持ち、今のコールサインR3BLでアクティブにオンエアしています。数年前よりシャックに招待してくれていますので、いずれモスクワを再訪する機会があれば、彼のシャックとタワーを見てみたいと思っています。


写真24. (左)UA0FL,Nikolayさん。(右)2006年の出張での再会。左端がJH3OII中村千代賢氏で、右端がR3BL/UA0FL,Nikolayさん。(注: 写真撮影時はRL3BL)

思い出の人達5 – VE2EKBとWA3PIR: コロナ禍中、日本は行動にそれほど制限がありませんでしたが、海外では相当だったようですので、いろんなオンライン同窓会をホストしました。その一つが上述した大学クラブ局VE2UNのZoom Reunion(写真25)です。私と同期で学生アパートも同じだったVE2EKB,Vladは、中学生のころメキシコに住んでおりコールサインはXE1xx、自作TXと短波付トランジスタラジオをRXにしてオンエアしていたそうです。お父さんがチェコスロバキア大使館員でしたが、本国で起きたプラハの春により移民を決意してカナダに来ました。彼は私のタイプライターを借りて卒論を書き、その後出世街道を上り詰め、音声合成・シンセサイザーで有名なKurzweilのCTOになりました。同メンバーのWA3PIR,Steveは医学系でとてもユーモアのある先輩でしたが、近年はアストラゼネカのCTOをしていたそうです。


写真25. カナダの大学クラブ局VE2UNのオンライン同窓会(2022年5月)、
上段左から、Alさん、JH3OII,Chuck、VE6SM,Mitchellさん、
中段左から、WA2UPC,Robertさん、WA3PIR,Steveさん、 WA1TOV,Steveさん、
下段左から、W8VEH,Vinceさん、VE2BEH,Patrickさん、VE2EKB,Vladさん。

JANETクラブのメンバーとの出会いも、エピソードが数々ありましたが、総じていま振り返ると色んな人達との出会いが、ハムをやっていて良かったと思う主因なので、これからも出会いや再会を大切にしたいと思っています。(2023年1月記)」

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