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今月のハム

JA6GXP 浅井渉さん

2023年4月17日掲載


1938年(昭和13年)、熊本出身で公務員だった父親の仕事の関係で、現在の大韓民国全州市で生まれ、現在の北朝鮮で終戦を迎えた浅井さん。終戦後は家族とともに1年がかりで徒歩で38度線を越えて現在の韓国に達した。1946年11月、引き揚げ船に乗って京都府舞鶴港に入港、やっとの思いで日本に帰国し、熊本市内の小学校1年に編入した。小学5〜6年生になるとラジオに興味を持ち始め、初歩のラジオなどの雑誌を参考にして、友人と一緒に鉱石ラジオや並4などを製作した。

中学生になると自作するラジオもだんだん高級になっていき、コイルキットを購入して高1中2(高周波増幅1段、中間周波増幅2段のラジオ)などの製作にトライした。夏休みの自由工作では、毎年ラジオを出品したという。部品はすべて熊本市内のジャンク屋で調達できたので、自転車に乗って友人とよく買い物に行ったことを覚えている。1955年、中学卒業を控え進路を決める時期になった。当初、国立熊本電波高等学校(現・熊本高等専門学校)への進学を考えた。しかし電波高校を卒業した後の就職先は、通信士として船に乗るのが一般的だった。父親を早く亡くし、長男であった浅井さんは、長期間家を空ける訳にはいかず、電波高校はあきらめて、電波高校以外で電気や通信に関連する授業のあった熊本工業高等学校の電気科に進学した。

高校2年生の時、浅井さんは友人の影響を受けアマチュア無線を知る。まずは自作の短波ラジオでアマチュア無線の受信を行ったところ、まずまず聞こえた。そしてアマチュア無線に興味を持ち毎日アマチュアバンドを聞くようになった浅井さんは、JARLに入会する。JARLからはSWLナンバー(JA6-1092)をもらい、その頃はせっせとSWLレポートを送って、QSLカードを収集した。


SWLに励む浅井さん。

同年、後にJA6AABを開局する同級生の岡さんと一緒に、2アマの国家試験にチャレンジした。当時のアマチュア無線技士には1級と2級の2つの資格しかなく、電気通信術のない2級を受験したが、残念ながら合格することはできなかった。当時の試験は記述式で、「試験内容はかなり難しかったことを覚えています」と浅井さんは話す。浅井さんは当時、送信機も試作していたというが、結局その送信機が日の目を見ることはなかった。

1957年に高校卒業後、浅井さんはラジオ熊本株式会社(現在の株式会社熊本放送)に就職し、技術部に配属された。ラジオ熊本は1959年4月1日より、それまでのラジオ放送に加えてテレビ放送も開始した。それに伴って、1961年には社名を、株式会社熊本放送に変更している。浅井さんは1962〜63年頃に、テレビの技術部に異動になった。その後は2、3年ごとにラジオとテレビを行き来したため、いつラジオの仕事をして、いつテレビの仕事をしたかを正確には覚えていないと言う。この頃は仕事が忙しかったこともあり、アマチュア無線のことは浅井さんの頭の中にはなかった。

1966年、熊本放送の社内にアマチュア無線のクラブ局が開局。コールサインはJA6YFJが割り当てられた。これは、系列の東京放送(現在のTBSテレビ)から非常通信用ネットワーク構築のため、民放連(日本民間放送連盟)に加盟する全国の放送局に出された協力の要請を受けてのものだった。それがきっかけとなり、浅井さんは、忘れていたアマチュア無線のことを思い出す。そしてさっそく電話級アマチュア無線技士(現在の4級)の国試に挑み合格を果たした。

電話級アマチュア無線技士の免許取得後、浅井さんはRKKアマチュア無線クラブJA6YFJに入部したが、個人局の開局申請も行い1967年3月31日付けでJA6GXPが免許された。開局に使った無線機は50MHz AMトランシーバーTR-1000だった。このトランシーバーはポータブル機と呼ばれ、乾電池で動作し肩に担いで移動運用に持って行けるように設計されていた。浅井さんは、開局後このトランシーバーを屋外に持ち出し、ロケーションの良い小高い丘などから運用したという。


浅井さんのTR-1000。

50MHz AMで開局した浅井さんは、その後HFの運用を始め7MHzに出て全国各地とのQSOを楽しむようになった。開局して1年ほど経つと、海外局(DX)を受信するようになる。アンテナは14/21/28MHzトラップ式トライバンド八木TA-33jrを購入し、15m 2段のクランクアップタワーに載せた。「当初は21MHzを中心にワッチを行いましたが、なかなかDXを呼ぶ勇気がありませんでした」と浅井さんは当時を振り返る。

1968年6月13日、その日は浅井さんの満30歳の誕生日であった。いつものように深夜までワッチを続けたところ、21MHz SSBでローデシア(現在のジンバブエ)のYL局ZE1JEの電波を捕らえた。交信が終わるのを待って、「どうせ10Wではアフリカまでは届かないだろう」と、冷やかし半分でZE1JEをコールした。すると、オペレーターのモーリーさんから応答があった。


ローデシアから届いたZE1JEのQSLカード。

「まさか飛ぶとは思っていなかっただけに、コールが返ってきたときは震え上がりました。返事があっただけでびっくりして、レポート交換を行った以外は、何を話したのか全く覚えていません」と浅井さんは当時を振り返る。浅井さんは30歳の誕生日という記念日に初めての海外交信を達成、しかも相手はアフリカのYL局だったという、一生の思い出となるQSOを経験した。これをきっかけに海外交信の虜になった浅井さんは徹夜で無線運用し一睡もせずに出社することが何度もあったという。その結果、DXハンティングの成果は上がっていったが、出力10Wでの運用では十分に満足行く結果は得られず、上級資格を取ろうという気持ちが強くなっていく。そうして1969年、2アマの国家試験に挑み合格した。

変更検査にも合格して14MHz帯を100Wで運用するようになると、DXCCのニューカントリーがどんどん増えるようになった。その頃、熊本市内に住む友人局が、14MHz SSBでヨルダンの故フセイン国王(フセイン1世・コールサインJY1)との交信に成功し、新聞に記事が掲載された。その記事に刺激を受けた浅井さんは、毎晩14MHzをワッチし、1970年4月17日、ついにJY1をとらえた。フセイン国王とのQSOはレポート交換だけであったが、一般人が他国の国王と直接言葉を交わす経験ができることなど、アマチュア無線以外ではそう簡単にあり得ることではなく、浅井さんは大変感激したことを覚えている。


増力当時の浅井さんのシャック。
机の上にはTS-500と専用スピーカー、棚の上にはFDFM-5、TR-1000が見える。

1976年、九州在住のDXerの数人が集まり、九州各県合同で年に1度ミーティングを行おうという話し合いが行われた。浅井さんもその発起人メンバーの一人であった。それまでは、各県ではまとまっていたDXer達が、県境を超えて横のつながりを深め、情報交換を行うことを目的としたもので、各県持ち回りで開催することに決まった。

初回は福岡県が担当することになり、翌1977年、久留米市で第1回九州DXer’sミーティングが開催され、九州各地から約60名のDXerが参加した。夜のミーティングでは珍局へのパイルアップでいつも戦っている他県のライバル達と顔をつきあわせて語り合い、大いに親睦を深めることができたという。第1回が成功したため、翌年の第2回は大分県が担当し中津市で開催、翌々年の第3回は熊本県が担当し熊本市で開催された。その後九州DXer’sミーティングは、コロナ禍になるまで一度も中断されず、コロナ前の2019年に浅井さんが実行委員長を務め熊本県で開催された第43回まで継続した。(2022年時点は中断中)

浅井さんがDXを始めた頃、たまたまサイクル20のピークにかかり、コンディションが良かったため1、2年でDXCC100が完成し、QSLカードも集まったが、申請の仕方がよく分からなかったため、申請は行っていなかった。1984年になってようやく重い腰を上げDXCC申請書を書き上げ、消滅エンティティも入れて313枚のQSLカードとともに米国のARRL本部まで書留便で送付し、浅井さんはついにDXCCを受賞した。

今では、フィールドチェックという制度ができたため、QSLカードをARRL本部に直接に送らなくとも、ARRLが認定した日本国内のカードチェッカーにQSLカードを審査してもらうことができる。そのカードチェッカーを現在浅井さん自身も担当しており、西日本ハムフェアの会場などで、持ち込まれたQSLカードのチェックを行っている。ちなみに自分のカードは、JR6IKD中嶋さん他のチェッカーにチェックしてもらっている。さらに、QSOデータを電子的にマッチングするLoTWというシステムも始まったため、今では交信成立後、必ずしもQSLカードを取得しなくてもDXCCが申請できるようになっている。


DXCCブースでカードチェック中の浅井さん。(2023年西日本ハムフェア)

初めてDXCCを申請した翌年の1985年、浅井さんはエンドーズメント申請を行い、現存トータル318エンティティのクレジットを得て、DXCCオナーロールメンバーになった。そして、ラスト2エンティティとなった1991年8月ミャンマーのXY0RRと交信して、ついに残り1エンティティとなった。最後に残ったのは、20年以上電波が出ていないアルバニアであった。


1990年頃の浅井さんのシャック。メイントランシーバーはIC-780。

しかし、ミャンマーとQSOを達成した直後の1991年9月、運良くアルバニアからもZA1Aの大規模な運用があり、浅井さんはついに現存する全てのエンティティ(当時は329エンティティ)とのQSOを達成した。1967年の開局以来24年を費やした結果であった。浅井さんはミャンマーとアルバニアのQSLカードを手にするとすぐにエンドーズメント申請を行い、晴れてDXCC #1オナーロールメンバーとなった。その後30余年が経過した2023年の現在でも#1オナーロールメンバーをキープしている。


一番左がDXCC #1オナーロールの盾

一方、浅井さんは、アマチュア無線に関して、なんでも試してみることが好きで、RTTYも早い時期に手をつけた。まずは1970年代の後半、沖縄にいる友人に頼んで、米軍払い下げのジャンクの業務用テレタイプマシンを購入して送ってもらい、アマチュア無線用に改造した。いざマシンを動作させてみると、ガチャガチャガチャと派手な音を立て、あまりの騒音から、「これは木造家屋では使い物にならない」と判断して、結局1局も交信することなく、最終的には粗大ゴミとして廃棄した。

その後は、東野電気のθ7000(シータ7000)で運用を始め、VK2KMとRTTYでのファーストQSOを達成、その後プロコのCRTモニター付きCT678を入手すると、メモリーをフル活用して交信を行った。このCT678は、2000年にパソコンのサウンドカードを入出力インターフェースとして使ってRTTYの運用ができる日本語版フリーソフトのMMTTYが登場するまで使い続け、200エンティティ以上と交信した。MMTTYを使うようになってからは、RTTY用の専用装置は片付け、現在でもMMTTYでRTTYの運用を行っているが、令和以降、主たるDXペディションでのデジタルモード運用はRTTYからFT8にシフトし、それに伴って浅井さんのRTTYモードでの運用比率も下がっている。


CT678が設置された浅井さんのシャック。

浅井さんは、SSTVも早いうちに手を出し、残像式ブラウン管の時代から運用を行っている。まず初めに1980年頃、東京電子工業のSS-727CとSS-727Mを入手して、モノクロSSTVを始めた。その頃送っていた画像は、交信成立に必要な最低限の内容である「相手のコールサイン」+「DE JA6GXP 595」といった文字だけで、これらを紙などに書いてカメラで写し、SSTV装置に取り込んだ。解像度が悪かったので、写真を送るということはほとんどなかったという。


SS-727CとSS-727M。

その後、モノクロスキャンコンバーターSC-800を入手した。残像式ブラウン管と違って、スキャンコンバーターを使うと、受信画像が時間の経過とともに消えていくことがなく、受信終了後も受信画像はモニターに写ったままで、画期的であった。スキャンコンバーターの登場でSSTVの交信は飛躍的に進歩したものの、それでも交信相手はあまり増えなかったため、浅井さんはだんだん興味が薄れていって、1984年頃を最後についには運用を中断してしまった。

浅井さんがSSTVの運用を中断している間も技術の進歩は進み、カラーSSTVの時代となった。また、より綺麗に、より短時間で高画質のカラー画像を送るために様々なモードが開発されていった。さらに、1998年頃にはスキャンコンバーターを使わずに、前述のMMTTY同様にパソコンのサウンドカードを入出力インターフェースとして使う高性能なSSTVコントロールソフトが数多く発表されていった。そんな中、2001年にMMSSTVが開発された。このソフトは高い性能を持ちながらもフリーソフトとしたことで、あっという間に世界中に広まり、以後、浅井さんもMMSSTVを愛用している。

新型コロナ感染症が流行する前の2019年、浅井さんはHF機をIC-7700からIC-7851に入れ替えた。2020年になるとコロナ禍となり外出する機会は減ったが、アマチュア無線を楽しむ分にはコロナはさほど影響もなく、2020年に再開されたJASTA SSTVアクティビティコンテストで総合2位に入賞するなど、SSTVは継続してアクティブに運用している。

その他に1980年代中頃、FAXが流行った時があった。新しもの好きの浅井さんは、もちろんFAX通信にもトライした。まずは中古のパナファックス1000を入手してアマチュア無線用に改造した。その後、パナファックス3000やミニファックスも入手して改造した。特に、ミニファックスは何十台とまとめて仕入れて改造し、ローカル局に配布したという。

ちょうどFAXが下火になった頃に出てきたのがパケット通信であった。パケット通信を行うにはパソコンが必要であるが、浅井さんがパソコンを導入した時期は早く、言語はBASIC、記憶装置はテープレコーダーの時代だった。SHARPのMZ-80というパソコン(当時はマイコンと呼ばれていた)を使い、ソフトは、国内外から色々と購入し、交信ログを付けてみたり、DXCCの整理を行ってみたりした。

パケット通信が流行ってくると、浅井さんはさっそくTNC(Terminal Node Controller)を入手した。TNCとはパケット通信の要になる装置で、パソコンと無線機の間に入れて使う附属装置である。浅井さんは初めに米国AEAのPK-80、その後タスコ電機のTNC-222を入手した。パケット通信も初めの頃は通信実験目的での運用がメインであったが、1990年代になると「パケットクラスター」という、パケット通信を使って、多人数が同時接続できるDX情報交換のネットが米国で生まれ、世界のDXerの間で爆発的に広まっていった。


浅井さんが使用したPK-80。

このネットには、珍局のコールサインやオンエアしている周波数の情報が流れるため、DXハンターにとって貴重な情報源であった。根っからのDXハンターであった浅井さんも当然導入。JR6WDレピータを設置している立田山に、パケットクラスターのノード局を設置して熊本のハムに開放した。1990年代後半になって、回線が安定していてスピードも速いWEBクラスターが主流になってからは、浅井さんもWEBクラスターに乗り換えた。

1998年に熊本放送を定年退職後、浅井さんがまず始めたことはパソコンへの交信ログの入力であった。使用するログソフトはメジャーなハムログを選んだ。浅井さんはそれまでにも数種類のログソフトを使い、電子化したログも多少はあったが、将来的なことも考えて、日本で一番多くの局が使っているハムログが一番無難だと思った。「QSLカードが到着していないQSOデータを入力しても意味がない」、「今さら届く訳でもないし、QSLカードがなければ何の証明にもならないのだから、入力はやめよう」と考え、手元にあるQSLカードを見て、そのカードに記載されたデータをハムログに入力していき、約2年間かかって10,000QSO超のデータ入力を完了した。一旦手持ちのすべてのQSLカードデータを入力してしまった後は、紙ログは一切使わずリアルタイムでハムログに入力している。2023年3月現在でデータ数は70,460QSO(2000年以前はQSLカード到着分のみ)となっている。


浅井さんは国内QSOにも熱心だ。

現役時代30余年で行ったQSO数より退職後のQSO数の方が断然多くなっているが、これは現役の頃は、(コンテスト以外では)ダイヤルを回して狙いを定め、狙った局しか呼ばなかったからで、「退職後は、暇な時間が増えたため、狙った局以外でも聞こえた局を呼ぶようになり、交信局数が飛躍的に伸びていったからです」と浅井さんは説明する。

浅井さんは1983年に熊本県初のアナログレピータJR6WDの立ち上げに尽力したが、2006年にはJARL熊本総会の開催に合わせてD-STARレピータの立ち上げも行っている。D-STARのデジタルレピータを開設する条件として、従来のアナログレピータの開設と決定的に違うのは、レピータをインターネット回線に接続することが挙げられる。そのため、山の上のロケーションの良いところへの設置を試みても、インターネット回線とつながらないのでは開設の条件が満たせない。浅井さんは、できるだけ公的機関がよいと考え、日本赤十字社熊本県支部と交渉を行った。

浅井さんは日赤熊本に出向いて、D-STARシステムを使った非常通信の有効性を訴え、最終的に了承をもらった。こうして開設場所の目処も立ったため、JARL熊本県支部の役員を中心に声をかけてメンバーを募り、浅井さんが代表者となってレピータ管理団体を立ち上げた。3月22日付でJP6YHNとして免許が下り、JARL熊本総会にも間に合った。それがきっかけとなり、D-STARの運用を始めた浅井さんは、JARL総会が終わった後も、シャックにいるときは常時JP6YHNをワッチするなど、引き続きアクティブに運用している。


稼働中のJP6YHN。

「アマチュア無線は人生です」と話す浅井さん。これだけ打ち込むものが他になかったことを理由に挙げる。浅井さんは競馬や競輪などのギャンブルは一切しない。庭いじりや家庭菜園も嫌い。旅行も昔からあまり行っていない。またかつてやっていたゴルフやグラウンドゴルフや写真もアマチュア無線ほど熱中はしていない。「アマチュア無線で苦労したことはほとんどありません。楽しかったから苦労を苦労と思わなかったでしょうね」と話す。

2021年6月、83歳の誕生日を迎えた浅井さんは意を決し、終活のためにアンテナとタワーを一旦すべて撤去した。大型アンテナのメンテナンスはこれ以上無理だと判断した結論だった。それでも翌週には自力でメンテナンスできる小型のアンテナを新たに設置して、引き続き、アマチュア無線を楽しんでいる。


撤去したタワーとアンテナ(2010年に撮影)

2022年には開局以来のQSLカードを整理してDXCCチャレンジアワードを1528ポイントで申請した。浅井さんは、各エンティティ1枚あれば十分というスタンスで長年DXCCハンティングを楽しんできたため、他のトップDXerと並ぶほどのポイントは無かったが、現在はFT8の運用をメインに、DXCCチャレンジ2000ポイントを目標に運用を続けている。


2023年2月の浅井さんのアンテナ群。V型ダイポールとワイヤーダイポール

JARLの活動などを通じてアマチュア無線の普及活性化に尽力しながら、RTTY、SSTV、FAX、パケット、サテライト、D-STAR、最近ではFT8と、新しいジャンルへの取り組みも決して怠らない。その一方、海外通信という伝統的なジャンルにおいてもDXCC #1オナーロールをキープし続けるなど第一線で活躍し、設備こそ縮小したものの、今でも浅井さんが運用しない日はほとんどない。「今の設備で遊べる範囲でずっとアマチュア無線を続けていきたいです」、と浅井さんは話す。

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