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今月のハム

JA3NDM 藤原美和さん

2026年1月5日掲載



兵庫県伊丹市在住のJA3NDM藤原さん。2006年から14年間務めたJARL兵庫県支部長を退任した後も、毎年冬に開催される関西ハムシンポジウムの実行委員長として今もその道で活躍中だ。

1950年に兵庫県朝来郡東河村(現在の朝来市和田山町)に生まれた藤原さんは、中学高校時代には陸上部に所属し、1964年東京オリンピック聖火ランナーの随走者を務めるなどで活躍した。14歳の時に初めてゲルマラジオを作り、15歳の時には0-V-1や1-V-1のラジオを作ったが、それには父親の趣味で自宅に真空管や電子部品はもちろんラジオ雑誌が多々あるという、自作に恵まれた環境だったことが大きかったそうだ。

「無線と実験」誌の付録「あなたはアマチュア無線局長」を読んでからはアマチュア無線にはまり、まずはJARLに入会しJA3-3946としてSWL活動を開始した。SWL-JCC100やSWL-WAJA(当時まだHAJAが発行されていなかった)を受領するなど熱心にSWL活動を行っていくうちに、自分でも電波を出してみたくなり、高校1年生だった16歳の時に夜行列車で大阪まで受験に出向き、電話級アマチュア無線技士を取得した。

従免取得後は3.5MHzと7MHzの2バンド送信機を自作。1967年17歳の時にJA3NDMを開局した。ファーストQSOは、7MHz AMで岡山県の局だったという。同年には電信級も取得し、電信オンリーのJA3PSYを開局した(当時は同じエリア内でも別コールサインの局を開設できた)。


JA3NDMを開局した頃の藤原さん

1968年、高校を卒業すると三菱電機株式会社に就職、北伊丹製作所の勤務となり半導体や集積回路の仕事を担当した。自宅からは通えないため寮住まいとなったが、週末には実家に帰って運用を続けた。その後50MHz AM機のFDAM-3を入手し、寮に50MHz 5エレ八木を上げて運用を始めたという。19歳の時には2アマを取得、その後、職場のアマチュア無線クラブの会長に就任したり、JARL関西支部(現在の関西地方本部)のクラブ組織検討委員会委員を引き受けたりしながら、伊丹市内に自宅を構えてからは変更検査を受けて50Wに増力、さらに100Wに増力して行った。

自作

根っからの自作好きである藤原さんは、約60年のハムライフにおいて様々なモノを作り、時には自作品コンテストに出品して数々の入賞を果たしているが、主だったところを紹介しよう。まずは1975年に作った430MHzアップバーター、1976年にクライストロン使って作った24GHz送信機、1981年に作った盲人用周波数読取装置(点字上下式)、これはJARL自作品コンテスで第一席に入賞した。その他ATV(NTSC方式)用のカメラと送信機、CQ誌に製作記事を載せた1200MHz 10Wリニアアンプ、FOXテーリング用IDジェネレーター、ARDF競技用スタートチャイム(JARL自作品コンテストで総務大臣賞を受賞)など、送受信機に関連するものだけでなく多岐にわたって自作を楽しんでいる。


ハムフェア自作品コンテストで第一席を受賞したときの盾

アワードハンティングと移動運用

7MHzをメインに熱心に運用を続けた藤原さんは1976年にWACA(全市交信賞)を7MHz SSB特記で受賞。続いて1979年に発行が始まったWAGA(全郡交信賞)は同年に発行番号10番で受賞したが、WACAとWAGAをどちらもシングルバンド・シングルモードで受賞したのは全国で初めてという快挙だった。続いて1982年には全日本1万局よみうりアワード本賞を受賞し、読売新聞の全国版に記事が掲載された。その後1万1千局賞も受賞している。


全市全郡との交信を達成した藤原さんは、次に町村ハンティングに興味をもち、1980年には全国のアワードハンター達と協力して「全国町村リスト」を制作し希望局に配布を始め、自らも町村サービスの移動運用を始めた。同年のGW前後には2週間の休暇を取得して、他2局と一緒に3人で信越、東北、北海道へ町村移動運用を敢行した。このときは車で幌馬車を牽引し、走行中も発電機を回しながら運用を行ったという。運用地のスケジュールは先に7MHzでアナウンスしておき、行く先々で地元局とアイポールQSOしたことを今でもよく覚えているという。

翌1981年のGW前後には再度2週間の休暇を取得して、沖縄県町村/離島移動運用に出かけた。この時のスケジュールには尖閣諸島の魚釣島(石垣市)も含めており、CQ誌にも掲載した。当時まだ誰も尖閣諸島から運用を行った実績が無く注目を集めたが、現地ではなかなか魚釣島へ連れて行ってくれる船が確保できなかった。移動運用日程の後半になって、魚釣島に行っても良いという船を宮古島で見つけたものの、もし行くとなると2週間の休暇をオーバーしてしまうため断念せざるを得えなかった。尖閣諸島に行くのが非常に難しくなってしまった今でも、この時の事が残念でならないと話す。

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